柄谷行人が「文学の終わり」について語ったとき、それは、彼にとっての、それまでの文学(明治以降の日本の私小説家から、文芸時評家から)について、ある種の
- (ヘーゲル的な)歴史の終わり
のような観点から、それを語っていたわけであるが(つまり、彼自身が、現在の作家たちに対して、それ以前のような、クリティカルな「対決」を感じなくなった、と)、まったく、そういった観点から外れても、この
- 文学の終わり
について考えさせられることが多くなった。
例えば、村上春樹の『ノルウェイの森』を思い出しても、作者が明確に
- 主人公の「僕(ぼく)」の「成長」のために、ヒロインを「殺した」
といったようなニュアンスのことを述べていたように、私たちは「こういった」作家の
- 悪ふざけ
をなぜ「礼賛」し続けなければならないのかが分からなくなった、わけである。
作者は意識的であれ、無意識であれ、自分の作品のさまざまな個所に、そういった
- 悪
を「隠して」記述する。そして、その多くは読者に「発見されない」。しかし、たまたま、そういった「悪」が、なにかの拍子で
- 露見
することが、ときどき起きる(その一番分かりやすい例が、ラノベ『二度目の人生を異世界で』で、この場合は、多くの批判を受け、作者が謝罪し、電子書籍版で、批判の個所を「削除」し、今後作品の再見直しに取り組みたい、とまで言う、という事態にまで至っている)。
しかし、例えば、近年起きた、「あいちトリエンナーレ」での津田大介の振舞いは、そもそも自分が「評価していない」作品を、それを展示すれば、
- 話題を呼ぶ(大炎上する=議論を呼び起こせる)
という理由「だけ」で、「表現の不自由展」を行ったと「言っている」時点で、もはや「芸術」は、なんらかの
- 価値
を意味する表象ではなく、
- 「運動家」の人々の、人々を「動員」するための「手段」
でしかなくなった、ということは明らかなのではないか。
しかし、こういった世の中の潮流はすでに、筒井康隆が「芸術聖域論」を唱えた時点で、予見されていたことだと考えられるわけである。例えば、上記の「あいちトリエンナーレ」にしても、ここで展示された作品の、かなりの割合が、津田大介の「友達」の、東浩紀先生が運営する「芸術学校」の生徒の作品だったわけであり、そもそも、その「芸術学校」の生徒の募集時点で、
- 生徒になれば、かなりの確率で「あいちトリエンナーレ」に出展できる
ということを臭わせていたことを振り返っても、もはや、なぜこんな「利権まみれ」の何かに対して、私たちが、ある「価値」をコミットメントしなければならないのかが、さっぱり分からないわけである。
どんな作品も、作者の「悪」が隠されている可能性がある。だとするなら、私たちはなぜ、ある作品を「評価」しなければならないのか? むしろ、こういった
- 倫理的な「問い」
が、現代社会において、どんどんと大きくなってきている、ということを感じる。
例えば、今回の新型コロナで、音楽のライブ会場が、次々と経営難で閉鎖されてきている、という話がされている。これに激怒したミュージシャンなどが、
- 新型コロナ「以前」の「日常」に戻るべきだ
といったことを声高に叫んでいる。つまり、「ノーガード戦法」だ。新型コロナなんか「忘れて」、今まで通りの日常を送ろう。マスクを止めて、居酒屋でドンチャン騒ぎをして、みんなで「ウイルス」を浴びまくろう。そうすれば、
- 以前と「同じ」収入が入ってくる
ということで、自分たちが貧困に陥ることはない、と言うわけである。
しかし、当たり前だが、誰かが「病気」で、今にも死にそうだ、という話をしているときに、それが
- 芸術
だ、という理由だけで、なんで、「自分の欲望のままに生きよう」とか、「自分だけが楽しけばいい」とか、「誰かが苦しんでても、そんなの俺には関係ない」とかいった内容のことを
- 歌って
いる歌を歌っている曲を、なんで「新型コロナ以前」のように冷静に聞ける、と言うんだろうね。音楽家が、なにかのメッセージを国民に向けて届けよう、とするのはいいよ。でも、その
- 内容
には、その人の「人格」が問われるのは、当たり前のことなんじゃないのかね。
今期、放映されているアニメ「リゼロ2期」は、とにかく、次々と登場人物が死ぬ。また、主人公が何度も自殺をする。私も、アニメ放送中ということで、改めて、原作の続きを読み始めたのだが、もう2、3冊読んでいるのだが
- まったく話が進まない
のだw この作品構造は、推理小説に似ている。推理小説では、主人公の探偵が、彼の「超越的な」推理能力で、その事件の「裏側」を「推理」して事件を解決していくが、リゼロの場合は、主人公があえて
- 危ない「ルート」
を選ぶことによって、結果として「死ぬ」ことになるのだが、このルートを選んだことで、始めて「知る」ことができた知識が、作品内で「死に戻り」と呼ばれている
- (テレビゲームで言うところの)セーブポイント
に戻った時点での、次の「ルート選び(=新しい「知識」の獲得)」にとって、重要な役割となっている。しかし、こういった作品構造にしてしまったために、この作品を読んでいると、極端に
- 会話が「不自然」
な印象を受ける。その一番分かりやすい例は、おそらく、プラトンの「ソクラテスの対話」なんじゃないか。プラトンは、そもそも、ピタゴラス教団の「信者」だったわけで、彼はソクラテスを、その教義の「布教」のために、使った。そのため、極端なまでに、ソクラテスの会話は
- 不自然
な
- 人工的
な色彩を帯びるようになってしまっている。まるで、会話の「最後」が分かっているかのように、会話者のお互いが、まるで
- 相手の思っていることが「分かっている」
かのように、「会話」が成立していく、この「気持ち悪さ」は、当たり前だが、このプラトンが
- 自分の頭の中で、二人の会話を「でっちあげた」
がゆえの、「不自然さ」に満ちている、典型的な「会話(ダイアローグ)を偽装した<モノローグ>」といった
- 偽物の会話でしかないもの
といった評価になるわけである。
さて。ここで、もう一つ、今期のアニメから例を挙げるなら、アニメ「とある科学」の今週の回は
- フレンダ回
であった。漫画版の「とある科学」で、かなり前に描かれたその作品内容は、佐天さんとフレンダとの、あまり接点の考えられなかった二人の「なれそめ」をコミカルに描いたものとして、とても印象的に描かれているわけであるが、当たり前だが、強烈な「違和感」がある。それは、すでに、少し前にはアニメ化されている「とある魔術」の回で、すでに、フレンダは、麦野に
- 真っ二つ
に胴体から切り離されて、殺されているからだ(彼女が、自分が所属する組織を敵に「売って」、生き延びようとした利敵行為を、麦野は許さなかった、といった場面だったと思うが、「とある魔術」の文脈としては、それほど印象的な場面だったわではない)。
つまり、すでにアニメ版において、「とる魔術」は「とある科学」の先を、どんどん進んでいて、時系列的に前の話を、今さらアニメ化されている、ということなのだ。
もうすでに、あと何日かで体を真っ二つにされて死ぬことが
- 分かっている
キャラの「コミカル」な演技を(声優の、まれいたその魅力がたっぷり描かれてますわ)、果たして私たちは「気持ちよく」消費できるのだろうか?
しかし、である。
それは、おそらくは、このアニメ「とある科学」を制作されているアニメ関係者にとっても同じ気持ちだったのではないのか。だから、これだけ、アニメ3期の作成が遅れたのではないか。
例えば、原作「とある魔術」で、佐天涙子が死んだんじゃないのか、といった噂が流れたことがあった(まあ、そう臭わせるような記述がされたのは確かなのだが)。彼女はレベルゼロの無能力者であり、これだけ「暴力的」な舞台設定がされている学園都市で、いつ死んでもおかしくないことは、読者はだれでも分かっているわけである。しかし、もしも彼女が「死にました」となったとして、果して
- それ以降の「アニメ」化を続ける「意味」はあるのか?
となるわけである。当たり前だが、次々と、登場人物の「フィギュア」が作られ、漫画でコミカルな表情描写が「キャラ」として描かれ(まあ、日本のサブカルチャーを決定的に特異にしているのは、この商業誌を中心とした「漫画」の「量」であることは間違いない)、でも、あと何日かで「死んじゃいます」と分かったなら、なんでそんなものを
- 喜んで
楽しめますかねw
ではなぜ、「とある科学」の3期が、今になって作られたのか? それは、例えば、食蜂操祈のことを考えてみてもいい。彼女は、原作「とある魔術」においては、
- 最新刊
に近づけば近づくほど、まさに「中心的」な役割として、作品の中心的なヒロインの地位にまで登りつめている。つまり、作品が進めば進むほど、彼女は重要な役割として、まさに
- 彼女を「中心」にして、作品が回る
ようにすらなっている。
そして、それはフレンダにしても同じなのだ。彼女は確かに死んだ。そして、麦野が彼女の墓参りに行く場面すら描かれている。しかし、そうではありながら、ある意味で、彼女は
- 何度も何度も
最新刊に近づけば近づくほど、この作品世界に「描かれ」続けているのだ。
まず、最初に話題になったのが
- フレンダの妹の登場
だ。そして、麦野の空想の中でのフレンダや、フレンダの「友人」の登場を介して、何度も何度も、過去のフレンダとの「交友」が、今さらのように描かれている。
まさに、この原作版「とある魔術」は
- フレンダに「呪われている」
と言ってもいい位の惨状を呈しているw つまり、作者はこの、あまりにも
- 印象的
だった、(ほとんどモブキャラ的な扱いでしかなかったはずの)彼女を、ただ「死んだ」何かのままにしておくことができなかった。つまり、こういった食蜂操祈やフレンダの、原作の最新刊での「重要度」の高まりが、アニメ「とある科学」3期を作ることに対して、アニメ制作サイドを
- 勇気づけた
と言うことができるのではないか...。