璃奈ちゃんボーダー

今期、アニメ「ニジガク」が放映されているが、この作品を考える上で、どうしても、ラブライブ・シリーズであり、この

の「構造」がどうなっているのかを考えることは避けて通れない、ように思われる。今までの、三つのシリーズ、無印とサンシャイン、そして、ニジガクであるが、基本的には以下の三つで構成されていることでは共通している。

  • 声優を「アニメキャラ」として「デビュー」させる。つまり、ライブなどの音楽活動。
  • スマホゲーム。このリズムゲームで、各キャラは、その声優の声あてをフルに使っていて、さらに、上記の音楽活動の曲が、このゲーム内でフルに使用される、相互関係が成立している。
  • アニメシリーズ。こちらは、上記の活動が一年以上続いた後に、必ずしも、上記でのコンテンツに縛られない形で、ストーリーをリニューアルして制作されている。

ここで、興味深いのは、この遅れて作成されることになるアニメシリーズが、この「ラブライブ・プロジェクト」の中において、主の関係とは必ずしも言えない、ということなのだ。
このポイントを押さえた上で、では、あえて上記三者のアニメシリーズを比べてみたとき、どういった特徴があるかと考えると、まず目を引くのが、無印とサンシャインが

  • 学校の廃校

を巡って展開されたストーリーであったのに、このニジガクでは、それが一切描かれていない、ということだろう。つまり、無印とサンシャインには、まがりなりにも

  • パブリック

な関心が描かれていたのにも関わらず、ニジガクにはそれがない、ということなのだ。
しかし、である。
このことを、一歩引いて、「ラブライブ・プロジェクトの構造」の視点で考えたとき、どういうことが言えるのか、ということなのである。
まず、各声優さんたちの活動はどうなっているか? 言うまでもなく、それぞれの事務所のタレントとして行う声優活動そのものであり、そこに、歌手活動が付加された形になっているわけだが、あくまでも、各声優はそれ単独での「商品」なわけであって、それぞれの事務所の大事な

  • ドル箱

として大事に扱われている、という関係になっている。
例えば、サンシャインでは、シャイニーの鈴木愛菜は今では、邪神ちゃんで一世を風靡しているし、独特の民謡をバックグラウンドにもっているその活動は興味深い。また、ニジガクでは、せつ菜(せつな)の楠木ともりや、彼方(かなた)の鬼頭明里は、声優として多くのアニメですでに活躍しているし、歌手活動も、一つの「ブランド」として行おうと意欲的なわけで、つまり、明確に各事務所の「商品」として、尊重されている。
つまり、このラブライブ・プロジェクトの声優として参加することが、今後の業界でのステップアップと深く関係している、といったような深い関係が読めるわけである。
つまり、私が言いたかったのは、彼らの活動「そのもの」は、そもそも、どこにも「パブリック」なインタレストがなかったわけで、純粋に、声優という「商売活動」を、インディペンデントに追求していただけだった、という、身も蓋もないような、本音があるわけで、そういう意味では、アニメ「ニジガク」は、そういった彼ら

  • 自身

の素顔により「近づいた」作品構成になっている、という意味では、やりやすいと言うのが正確なのだろう。
しかし、である。
そのことによって、今度は「動機」の調達に困難を抱えている、と言えるのかもしれない。つまり、なんでこの「アイドル」を「応援」しなければならないのか。そういった「動機」が、よく分からなくなっていくわけである。
例えば、これを、スマホゲームの観点から考えてみよう。毎日、このゲームを遊んでいる人にしてみれば、そこで登場するキャラを「応援」することは、自然な態度の延長だ、となるかもしれない。しかし、それは、そのゲームを「日常的に遊んでいる」という日々の「実践」なしには考えられない。つまり、ここで問うているのは、なぜそうするのか、といった、より根本的な動機に関係している。
そういった意味では、アニメ「ニジガク」は、徹底した

  • 日常系

といった側面が、どうしても否めない。ずっと、なんの「事件」も起きず、作品は続いていくわけで、これをどう考えるのか、なのだろう。
しかし、他方において、無印やサンシャインにも、「こういった側面」がなかったかといえば嘘になるわけで、いや。むしろ、全体の半分は、こういった

  • まったり日常系

の作品構成で占められていたわけで、ようするに、アニメ「ニジガク」は、この、まったり系「だけ」になってしまった、ということをどう考えればいいのか、ということなのだ。これを、より

  • (夾雑物がなくなって)純粋化した

という意味で、それを「良かった」と考えるのか、どうなのか、ということだ。
例えば、アニメ「ニジガク」第6話は、天王寺璃奈(てんのうじりな)をメインにしたストーリーになっている。つまり、彼女のいわゆる

  • 璃奈ちゃんボード

誕生の物語が描かれている。天王寺璃奈(てんのうじりな)はクラスでも友達のいない「ぼっち」として登場する。昔から、自分では楽しくて笑ってるつもりだったのに、「顔が怖い」と言われることを繰り返すうちに、誤解されることが怖くなって、人前に、顔を見せて話せなくなる。そんな彼女が一人ぼっちで、孤独に学校でいるところに、優しく話しかけたのが、

  • 宮下愛(みやしたあい)

だ。彼女は、ほんとうに優しい。彼女が、璃奈を「人間」にしてくれた、と言ってもいいのかもしれない。
璃奈はクラスの人たちと友達になりたい一心で、ソロライブを行うことを決心する。しかし、ライブの日が近づくにつれて、自分が人前で話せないことが、どうしても、それを阻んでいることに苦しみ始める。
しかし、それを救ってくれたのが、同窓会のメンバーたちだった、と言っていいだろう。つまり、アイドルは

  • 欠点を<直さなくていい>

のだ! 欠点も、その人の特徴なのであって、そこも「愛す」のが、アイドルなのだ。そのままでいい。そうありながら、「表現」することが、彼女なのであって、それ以上でも、それ以下でもない。
そこで、璃奈は「璃奈ちゃんボード」という、デジタルボードで顔を隠して、アイドルパフォーマンスを行う。これが、彼女のそれ以降の、基本的なスタイルとして確立していく。
ただ、私はこの「璃奈ちゃんボード」を見ながら、それほどの違和感を感じなかった。
というのは、そもそも、アニメなんだから、最初から「絵」なんだからw、むしろ

  • 全員

が「璃奈ちゃんボード」をしているようなもんじゃん、と言ってやりたくなるわけだ。
それだけじゃない。インターネットを見てみればいい。そこらじゅうで、

  • 匿名

の「コテハン」ばっかりじゃないかw むしろ、なんで「顕名」で活動しなきゃなんないのかが分かんないくらいに、匿名が当たり前になっている。
さらに、だ。今、街に出てみればいい。

  • みんなが「璃奈ちゃんボード」をしているw

私たちは、みんな「璃奈ちゃんボーダー」なのだ! つまり、「マスク」である。最近では、マスクは「危険厨」の象徴として、安全厨の攻撃の対象として、恐しい罵詈雑言が飛びかっているわけだ。
そういう人に言わせれば、一生マスクを強制されるのなんて耐えられない。自分の表現の自由が壊されている。これじゃ生きている意味がない。自分の顔を人に見せることを他者に禁止されるなんていう「強制」は、最悪の人権侵害だ、と。
でも、ね。
いいんじゃないですかねw なぜなら、そういった「文化」こそが、璃奈ちゃんを昔から苦しめてきたんじゃないかw そういったお前らの

が、多くの人を前向きに生きられなく、苦しめてきたんだ。そういった、他人の苦しむ心が分からない鬼畜連中が、死ぬまで

  • 野放し

にされているような世の中なら、どれだけこっちの方がましだろうか。むしろ、私たちは自分たちが、こうして

  • 璃奈ちゃんボーダー

であることに「誇り」をもっていいのだ...。