翻訳の「事実性」

ここのところ、よく、英語のペーパーバックを読んでいる。
!!!
こんなことを書くと、お前はいつから英語ネイティブになったんだ、何回海外旅行をしているんだ、とか、いろいろ言われそうだが、そうではない。たんに、スマホキンドルの翻訳機能で

  • 日本語で

読んでいるだけだ。早い話が、大抵の最近の、おもしろそうな話は、まだ、日本語の翻訳がでていないし、そんなのは「たとえでたとしても」何年も先だ。でも、最近の興味深い話だから、日本の本でも引用されているわけで、だったら、原典を読むしかない。
この事情はネットでも同じで、最近の海外の偉そうな学者は、みんな、自分のブログをもっていたり、ツイッターでつぶやいていたりするわけだが、それらも、クロームの自動翻訳機能、ツイッターの自動翻訳機能で読んでいる。
しかし、ここで、ある疑問がうかぶ。というのは、こういった翻訳ツールは、当然ながら、変な翻訳をすることがある。しかし、基本的に読者は、それを気にしない。あまりに気になるときは、原典の方の文章を見返すこともあるが。
ここで私は「変」と言った。それは、いわゆる「学者」や「翻訳を仕事にしている人」が絶対にやらないような変換がされているから、という意味になる。
しかし、である。
考えてもみてほしい。この翻訳ツールは、「こう」変換したのだ。だったら、「これ」によって、このツールを使っている人は、

  • 生活

をしていくんじゃないだろうか。そして、いずれ「この翻訳」が

  • 一つの辞書の意味

として、載ることになるだろうw 大事なことは、これが「実践的」な

  • 事実性

としてある、というところにある。
ある日本人がアメリカ人と、このツールを使って「会話」をする、としよう。この時、その二人は、このツールが「どういう動作をするか」を

  • 知っている

とする。すると、そのアメリカ人は、「このツールは、あることを話すと、まったく別のことに翻訳する」と知っているわけだから、だとするなら、そのアメリカ人は、

  • 日本語に翻訳されて、そのアメリカ人が言いたかった「あること」に翻訳されるようになる、別の言葉

をつぶやくだろうw だって、そうでなければ意図した結果にならない。
しかし、もともとこれが「会話」なんじゃないか。なにか、学者が考えるような「超越的な」言語(の意味)なるものがある、と考えることの方が傲慢なんじゃないか...。