高田純『カント実践哲学と応用倫理学』

ピーター・シンガーの『実践の倫理』は、「パーソン論」という考えで書かれている、と言われる。

そこで私の提案は、<理性、自己意識、感知、感覚能力などの点で同じレベルにあるならば、胎児の生命に人間以外の生命と同じだけの価値しか認めないようにしよう>ということである。どんな胎児も人格ではないのだから、胎児には人格と同じだけの生きる資格がないのである。
ピーター・シンガー『実践の倫理』)
実践の倫理

(上記の引用では「胎児」だけを議論しているが、まったく同じ理屈で「高齢者」や「障碍者」に適用されることが分かるだろう。)
ここで上記で「人格」と書かれているのが「パーソンの訳」で、ここに彼の「動物の権利」論の

  • 本当の意図

が分かる形になっているわけで、ようするに、彼は「人間を動物以下に扱う」ことの

  • 正当化

を「証明」することで、逆に

  • 人間を<虐殺>する「正当化」

の論理が正当化可能だ、と考えているわけだ。
もしも上記の理屈が正しいなら、相模原障害者殺傷事件の植松聖が、世界中の「胎児」を殺してもOKということになり、一瞬で人類は滅びるだろう。
しかしそう言うと彼は言うわけである。「でもそれは<人間以外と同じレベル>には、生きる資格はあるんだよ」と。つまり、ここで「動物の権利」なる、けったいな理屈が使われているわけであるw あのなあ。ようするに、この人は

  • 世界中の人間の胎児を「一瞬」で、相模原障害者殺傷事件の植松聖が殺すことによって、人類を滅亡させる「権利」と、ある私たちが今まで認識したのかどうかも怪しい、どっかの「一種類の動物の種」を絶滅させることは<等価>

だと、本気でマジモンで主張しているわけだ。よかったよ。こんな奴が、人類のリーダーじゃなくて。もしもこんな奴が、この地球の人類のリーダーだったら、全人類を、どっかの動物の餌のために、生贄に捧げかねないだろう。だって、少なくとも胎児は「等価」らしいから。等価ってことは、いざというときは、二分の一の確率で、どっちかにするってわけだろw
上記の議論の何がおかしいのだろう?
まず、気付くことが二つある。それは「パーソン論」が、理性や自己意識の

  • 存在の自明性

を前提に議論をしていることだ。つまり、そもそもピーター・シンガーは何を理性や自己意識と呼んでいるのかが分からない。つまり、そのことについての彼の「理論」がない。おそらく、カントかどっかから取ってきている「つもり」になっているのだろうけど、または、「自然科学」の科学者が、理性や自己意識といった言葉を使っている文脈程度の意味なのかもしれないが、いずれにしろ、これでは何も言っていないのと変わらない。
もう一つが、「生物種の存在」を自明視していることだ。なんらかの「種」が「存在」する、という表現は、確かに、「統計による、ある傾向」を指摘するという意味では意味のあることなのだろうが、それを

  • 実体

として語ることには危険がともなう。そもそも生物はそのようにできていない。たんに私は「歴史的」に今このようにあるだけで、本質的に回りの人と関係ない。どこかの男女がセックスをして子どもができるのも、「たまたまできた」以上の説明があるはずがなく、たまたまそうなっていた以上の本質的な説明はありえない。もちろん、多くの場合が、そうやって子どもができなければ、今の私はいなかったわけだけれど、だからといって「それ」が私の「本質」だ、という説明は、たんに「結果論」でしかないわけで、つまりそういった

  • 人間の<本性=本質>

が、「どこか」にあって、私たちは「それ」が「現れて」いるだけ、といったような、プラトンから連綿と続く、本質主義が「うさんくさい」と言っているわけで、まさにそれを、ダーウィンの進化論は否定したわけであろう。すべては「歴史的な結果」であって、誰かが「デザイン」したわけじゃない。つまり、そういったものに対して、その個体を「超える」本質を「実体化」させることは危険なわけだ。
ここまで考えてきて、ピーター・シンガーがカントの「人間性の尊厳」という考えに反対していることが分かるわけだが、では、対して、カントはこの問題をどう考えていたのだろうか、ということについて、掲題の本が、簡単にまとめている。

彼[カント]によれば、人格は理性的存在者として道徳共同体に属し、その成員として尊重されるが、現実の個人は理性的存在者からなんらかの点で乖離している。人間は「道徳的素質」をもち、これを発達させるが、この発達は内的、外的条件によって制約させざるをえない。しかし、道徳的素質の発達の状態やその制約の相違にもかかわらず、すべての個人はこの制約の克服のために努力する点で、理念上で道徳共同体の成員として処遇されなければならない。このようなカントの見解は道徳的素質以外の素質の発達とその障碍にも該当するであろう。障碍は発達の諸段階でさまざまな程度、形態で生じうるのであり、いかなる個人もこれを完全に逃れることはできない。重度の先天的疾患のため、素質の発達が著しく困難なばあい、傷病によってその能力が極度に弱められ、失われるばあいはその極端な例にすぎない。
個人の発達状態が固定的に理解されたうえで、その社会的寄与の有無やその度合いの相違によって道徳的扱いに差別が設けられてはならないであろう。人間の素質の発達は可塑的であり、さまざまな可能性をもっている。障碍も固定的に理解されるべきではない。医療技術の発達、社会的援助の充実などによって、それが補われる可能性が存在する。この点でも、カントの見解から摂取できる要素がある。彼は人間のたえざる道徳的努力を強調するが、この努力は個々人によって独力で行なわれるのではなく、他の個人との相互の協力をつうじて行なわれると述べている。『宗教論』においては、「最高の道徳的美」は他人との協力、「倫理的共同体」のもとで実現されると述べられている(Rlg.97f.:10一二九頁以降)。このことは、道徳以外の分野における個人の発達、および障碍の克服にも該当するであろう(本章、四・一)。

そもそも、ある人間が「完璧」ということはありえないわけだ。どんな人間も、その「理念」において、なんらかの瑕疵がある。それはあくまで「理念体」なのであって、完璧な存在なんて、一人もいない。
だとするなら、ある人はダメで、ある人はOKなんていう境界を議論することも欺瞞的なわけであろう。
小松美彦さんの本で紹介されていたが、脳のある部位が徹底的に破壊された人が、なぜか、他の部位がその機能を代替することによって、まったく普通に生活をしているケースがあるという。これと同じように、そんなに簡単に人間の潜在性を語れない。今

  • ある状態

にあることが、未来永劫不変であることを意味しない(それは、ある植物の種が、芽を出すか出さないかに比べられる)。ちょっとした科学の進歩で、がらっと変わるかもしれないし、まったく違った要因でかもしれない。
いずれにしろ、傲慢だよね。ピーター・シンガーは。お前は生きていい、お前は死ね、って。何様だよ。上から目線で。典型的なパターナリズムなわけで、そもそもこの民主主義の社会で、パターナリズムを正当化できる場合が

  • 存在する

と言う奴らは、結局、その具体例をあげろと言われた時点でジエンドなんだよね。だって、どんな場合だって、民主主義的プロセスを経ずに正当化できる何かが今だかつて見つかったことなんてないわけだ...。