マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』

Vtuberの視聴者数ランキングを見ると、ほとんどホロライブ所属が席巻している状態が、かなり前からずっと続いているわけだが、その、ホロライブの動画を見ていて、もしも一人だけ「アイドル」らしいアイドルを挙げるとしたら、港あくあかなあ、と、以下の3Dライブを見ていたとき思った。

【3DLIVE】あくあ色すーぱーみらくる☆どり〜む♪【#湊あくあ3Dライブ 】 - YouTube

それが、今回、活動休止が発表され、それについてを以下の動画で自ら説明しているわけだが、まあ、かなりストレスというか、追い込まれていたんじゃないか、といった印象を受ける。

大事なお話【湊あくあ/ホロライブ】 - YouTube

なんで私が彼女こそ、ホロライブの中でも「アイドル」らしいと思うかというと簡単で、彼女自らが自分で

  • だめ

であることを語ってきたからで、それは上記の動画でも、「話すのが苦手」で配信の前には、いつも番組で話すことを、まとめて書いてからやってた、という話をしていたところからも分かるわけで。
ようするに、そういうことなのだ。まあ、なんでも「できる」奴を、なんで「応援」しなきゃなんないの、って話なんだよね。
みんな、生きるのに苦労しているんだよ。毎日、ドジばっかりやって、怒られて、それでもなんとか生きているのだ。だから、苦労している人の気持ちが分かるんだよね。だから、あくたんを応援したくなる。
それは、もともとのアイドルの「定義」そのものだったと言ってもいいと思う。そもそも、アイドルは歌はうまくない。なんのとりえもない女の子のことを言っていたのだ。そういう「活動」をアイドルと言っていた。いつの間には、その「定義」は、すりかえられて、偽物のアイドルをアイドルと呼ばれてきた。
ここで少し話題を変えて、アニメ「ラブライブ」のスマホゲーム版、スクスタ第20章炎上問題を考えてみたい。その内容については、以下の動画を見てもらうとして。

[倍速切り抜き] 忙しい人の為のスクスタ20章 ストーリー - YouTube

ここで、「ラン獣」こと、ランジュという、

  • 鬼畜

が、聖域であるラブライブの世界に入ってきたことの、あまりにもの

  • 汚染っぷり

が、問われたわけですね。つまり、今までは「みんな、いい人」の世界だったわけ。だから、みんなが、この世界そのものを愛し、愛(め)で、受け入れてきたわけだよね。そこに、ラン獣が現れた。え? 俺たち、この

  • 鬼畜

のCDを買わされるの? っていう疑問符がよぎった、ってわけ。
ただ、さ。私は、上記の動画を見ていて、これって、バンドリに似てるな、って思ったんだよね。つまり、RASのチュチュだよね。アニメ版における、チュチュの登場がこんな感じだった。明らかに彼女は、この世界観からまっさきに排除されなければならない

  • 危険思想

をもった人物として、強引に押し込んできた。
ただ、その経緯は少し、ねじれた関係ではあったんだと思う。まず、チュチュは、最初は、Roseliaの湊友希那の所に行って、Roselia のプロデューサーをさせてくれ、って言ったんだよね。
しかし、それを湊友希那が断った。ただ、その断った理由は、「自分たちにはプロデューサーは必要ないから」だった。つまり、さ。湊友希那は、少し、チュチュに似ていたんだ。
そもそも、最初、湊友希那がバンドメンバーを集めるときは、徹底した「技術」のある人間を探していた。そうやって思い出してみると、湊友希那とチュチュは、どこか同類だった側面がある。
上記の第20章の動画を見てもらうと分かるけど、ラン獣は、ニューヨークから、敏腕のプロデューサーを引き抜いてきているんだよねw まさに、「地球の裏側」からw そして、このプロデューサーがまた、世界中の最新の音楽を収集して、常に最新の音楽を作曲に取り入れている、と自慢しやがる。いや、それのことを

  • パクリ

って言うんだけどw なんなのこいつ、という感想しかない。
地球の裏側の人間が、さらにそこの地球の裏側の音楽を丸パクリしている、という「グローバリズム」とか呼ばれているものを地で行っている、ってわけ。
そう考えると、アニメ「バンドリ」の世界は、この「技術主義」に対立する形で、ポピパがいる。なんか、仲間うちで、わちゃわちゃやってて、「楽しそう」ってノリで、たくさんのファンがついてきているバンドが、主人公となっている。そして、このポピパ以上に、この「対立」が際立っているバンドが、After Grow だ。このバンドは、そもそも、結成時期が、中学生の「友達仲間」だ。つまり、このメンバー全員が、その時、始めて、バンドの楽器を始めている。バンドの同期が、

  • 今まで通りに、みんなで集まって「つるめる」

ものの一つとしてバンドを選んだだけで、それ以上でも、それ以下でもない。
大事なポイントは、彼女たちは、今のこの関係を「変える」ということを考えたこともない、ということだ。別のメンバーを入れることとか、そういったことを考えたことがない。つまり、なぜこのメンバーで続けることに疑問をもたなければならないのか、が分からないのだ。
例えば、こういったバンドで似たような印象を受けるメジャーなものを思い浮かべてみると、まず思いつくのが、BUMP OF CHICKEN なんじゃないだろうか。
彼らの曲は、独特のものがあるわけだけど、たしかに、どこか、昔から、つるんでいる仲間で「ずっと一緒にいる」メンバーが作り、演奏してきた、っていう印象に、ぴったり合う創作活動をやってるなあ、と思わなくもない。

現在のアメリカ政治で最も政治的分断の一つは、大学のお学位を持っている人びとと持っていない人びとのあいだに存在する。二〇一六年の選挙では、トランプは大学の学位を持たない白人有権者の三分の二の票を獲得したが、ヒラリー・クリントンは上級学位(修士号あるいは博士号)を持つ有権者のあいだで圧勝した。イギリスのブレグジット国民投票でも同様の分断が現れた。大学教育を受けていない有権者は圧倒的にブレグジットへ賛成票を投じたが、大学院の学位を持つ有権者の大多数は残留に投票したのだ。

おそらく、この「分断」は日本においても変わらない。大学に行けなかった人たちは、常に社会から、

  • 下級国民

として受けとられる

  • 侮辱

  • 耐えて

生きている、と思っている。だから、彼らは、大学に行った連中や大学そのものの存在を「受け入れない」。彼らは、大学に行った連中を

  • 仲間だと思わない

し、大学が「必要」だとする全ての主張に

  • 反対

する。彼らは、端的に「大学を否定する」わけであり、そうやって生きていくのだ。
一切の、国の政治が

  • 大学に行った人

  • 大学に行かなかった人

で、完全に「分断」するということは、これは、どんなテーマであっても、必ず、この結果になる、ということを意味する。
なぜなら、大学に行かなかった人のアイデンティティは、「大学に行った人と一緒の行動をしたくない」に尽きているから、大学に行った連中がAという人に投票していたら、彼らは

  • Aでない人に投票する

ということだけが、「最初」に決定するからだ。これが、

において結果する社会は、なにかが間違っていないだろうか?
なにが間違っているんだろう? 言うまでもない。大学が間違っているのだ。
大学なんて、あってはならない。大学を破壊しなくてはならない。もしもそれ以外の語り方をするとするなら、「今ある大学と、まったく別の組織に変えなければならない」ということを意味するだろう。
早い話が、大学は「非倫理的」な組織なのだ。だから、その存在を許してはいけないのだ。このことは、大学に行った人が「非倫理的」であることと変わらない。つまり、大学に行ったことは、恥かしいことなのだ。なぜなら、大学そのものが

  • 差別

だからだ。大学に入ることは、差別「をする」、と言っていることと変わらない。これほど差別が明確である大学にわざわざ行ける人間というのは、どこか

  • 人間として欠陥のある

ということを意味する、とみなしていい。なぜなら、ここまで明らかだからだ。

もう一度、入試スキャンダルについて考えてみよう。世に湧き起こった憤慨の大半は、不正行為やその不公正っさに向けられていた。だが、それと同じくらい問題なのは、不正行為を突き動かした考え方だ。スキャンダルの背後には、いまでは実にありふれているため気にも留められることもほとんどない想定があった。つまり、名門大学への入学は喉から手が出るほど欲しがられている褒賞だというものだ。このスキャンダルが注目を集めた理由は、有名芸能人やプライベートエクイティ・ファンドの大物が関わっていたことだけではない。彼らがお金で買おうとした入学の権利が、多くの人が切望するものであり、熱狂的に追い求められる対象だった点にもあったのだ。

しかし、ね。考えてもみてほしい。大学とは、たんに学問をする場所だ。そこが、なんでこんなに「価値」があるかのように、社会から受けとられているのか? その大学の学生は、たんに、そこの「所属」を意味しているに過ぎない。つまり、それだけでは、なにもその人を語ったことにならない。なのに、なぜその「所属」だけで、奇妙なまでに、社会から「評価」を受けるのか?
そこには、なんらかの

  • 間違った「妄想」

が関わっている、と考えるしかないだろう。もしもそんなに、社会がその所属に「価値」を見出すなら、どんな汚い手口を使ってでも、そこに「所属」してやろう、とたくらむ連中が、後をたたないだろう。
ということは、どういうことか? 大学を「そんな価値がない場所であることを証明する」必要がある。その方法は簡単で、

  • 基本的に、誰でも入れる場所にする

でいい。しかも、それでなにも困らないのだ!

すでに一九六〇年には、出願者数はそれほど膨大ではなかったものの、イエール大学の入試委員を長年務めたある人物がこんなこと漏らしているという。「ときどき、やりきれない気分になります。何千人分[の願書]を全部......階段の上からばらまいて、手当たり次第に一〇〇〇人を選んでも、委員会で話し合って選んだのと遜色ない学生ができあがるでしょうから」

そもそも、さ。なんで、大学入試って、あんな難しそうな問題を出すんだろうね。こんなの、明らかに、

  • こんな問題を解けなくったって、十分に大学の授業についていける

問題ばっかりじゃないか。彼らがやりたいのは、たんに

  • 人数を減らす

ことでしかない。わざわざ、「ひっかけ問題」を出して、どじな子とか、おっちょこちょいな子に対して「いじめ」をやっているのと変わらない。
そういう「ひっかけ問題」や、「授業で習っていないけど、ある特殊な予備校でだけ、一子相伝にその解き方を教えている」ものを、たまたま都会に住んでいて習っているからできた、という

  • 地方差別

の産物でしかない。
まず、さ。すべての大学は、学校の授業を理解している全ての生徒を「合格」にさせるべきだよ。その上で、各大学が受け入れ可能な人数のキャパがあることから、どのように各大学の配分を調整するかを考えるべきだ。
マイケル・サンデルは「籤引き」を提案しているけど、まったく、これに賛成だし、これで問題ない。そもそも、大学ごとの「ランク」とか言っていることが、差別的で反社会的なわけだ。
どこの大学も変わらない。なぜなら、ある大学に行った学生が、別の大学に行った学生より、

  • 劣った授業内容だ

となったら、その大学は「手を抜いた」「適当にやった」という理由で、反社会的な組織であることを認めたことと変わらないわけであろう。
しかし、こういうふうに考える人もいるかもしれない。数学の天才が、大学で才能を花開くためには、優秀な学生を受け入れる、特殊な学科が必要なのではないか、と。しかし、そういう意味では、大学の理学部数学科は、たんなる

  • 高校教師の育成組織

でしかなく、そういう意味で、そういった数学の才能と関係ない。もしも、そういった才能がどうこう言いたいなら、そういったパトロン的な組織を有志の人たちで作ればいい(研究所ですね。給料を払う)。しかし、そういった民間企業にも似た組織は、当然そのリクルート

  • そういった、さまざまな「需要」に対応して、人材のリクルートがされる

わけでして、そこにおいてこそ、企業の人材登用と同じように、才能の序列ではなく、「一定のスキル項目の適合」が問われるわけで、やっぱり大学的なものはいらない、ということになる。
私は、これから何十年かかけて、社会はこういう方向に向かっていくと思っている。
マイケル・サンデルも言うように、いわゆる「リベラル」とは、この能力主義を意味する。オバマ元大統領の側近が全て、大学の博士過程の資格をもっているような連中だった、というのは象徴的で、オバマはそれを

  • 差別的

だと考えなかった。なぜ、ホワイトハウスに、大卒でない一般の人がいないのか、そしていないことがなぜ問題なのかが、彼には、さっぱり分からなかった。
そう。いわゆる「リベラル」とは、能力主義と同値だった。それは、歴史的にそうだった。過去のアメリカの民主党の大統領候補が、ずっと一貫して、こういった「差別発言」を繰り返してきた。彼らは本気で、こういった「差別」は「やって良い」と、「許される」と、本気で信じていた鬼畜だったのだw
いわゆる「リベラル」の言う、能力主義においては、そのメンバーシップは

  • 地球の裏側

から探し出される。バンドリの、After Grow のように、「友達同士じゃダメ」だと言う。なぜなら、地球の裏側には、友達よりも「上位」の能力の人が必ず存在するから。
これは、「メンバーシップ」の問題なのだ。社会契約論では、国民は全員で「契約した」というたてつけになっている。ところが、リベラルは、そういったメンバーシップと関係なく、地球の裏側からリクルートしてくる。そもそも、その人に

  • この街を良くするために働きたい

というモチベーションがあるかないかに関係なく、リクルートしてくる。というか、そもそもその人が「この街を知らない」としても、そいつがどんなサイコパスな妄想を毎日していようが、そういった一切と関係なく、テストの上位何人かに、入学許可証を送るのと変わらない。
こうやって考えてくると、「貴族」というのは、ある種の「友達=メンバーシップ」なんだ、ということが分かる。仲間だから、一緒に働くし、仕事も斡旋する。そうやって、

  • 一緒に協力して生きていく

ということを疑いもしない。他方、奴隷とは戦争の勝者側が敗者側の戦士を、戦利品として受けとったものであって、彼らは「メンバーシップの外」の人間関係「だから」、自分たちの仕事に権限のある立場で関わることを許さない、という関係になっている。
太古の村落共同体を考えてみよう。そこでは、そもそも村の「外」というのは、ときどき流れ着いて、住みついていく、異邦人を除いて基本的に考えられない。みんな、この村を守るし、死ぬまで

  • みんな

で、この村を守っていくことを疑ったことがない。こうした場合、「リベラル」とはなんのことか分からなくなるわけである。そもそも、地球の裏側の人のことを考えること自体が、どうかしている。そこに人がいるのかも、さだかではない。つまり、

  • 村の外に人がいるのかも、よく分からない

そんなわからないところに、自分に勝った人がどうのこうのと考えること自体が、馬鹿馬鹿しいわけだろう...。

実力も運のうち 能力主義は正義か?

実力も運のうち 能力主義は正義か?