本音主義と不可視な他者

今回、東京はマンボーを行うことになった。それに対応して、山際厚労大臣が記者会見を行った。

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ここにおいて、山際大臣が今の新型コロナの流行状況をどう考えてるのかを、かなり、丁寧に説明している。
流行の拡大で、今はアクティブな若者が感染者の中心だが、それが、家庭内のおじいちゃん、おばあちゃんといった高齢者、高齢者の養老施設に、ケア労働者の若者から感染が広がっていったときに、どうなるかを懸念している、と。
また、確かに、クリスマス、大晦日、正月を経て、急激に感染が広がったが、実行再生産数は5近くから、2くらいまで下がった。ここから、順調に下がっていけば、2月中旬には、感染の収束が見込める。そして、その想定が正しいなら、確かに、そこまで警戒する必要はないかもしれない。しかし、本当にそういった想定ができるかは、もう少し、この基本再生産数の推移を見守らなければ判断できない、と。
また、いつもの、西浦先生が今回のオミクロンの性質を分析している。

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そこでの議論の中心は、世代時間の短さ、だと言う。これはいい面もあるが、悪い面もある。いい面は、勝負が早く着くということで、ある程度、この混乱の時期が短期間であると見積れる、ということだ。悪い面は、一気に感染が拡大するので、日本の弱点である、医療機関のキャパが、すぐにいっぱいになってしまうことが、早い段階で見積れることで、ここで求められることは、早めの対策を、先手先手で打たなければならない、ということだと。
ここで、少し話題を変えたい。以下の動画で、岡田斗司夫がおもしろいことを言っている。

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まず、話の始めに、1970年代にはやった「俺たちの旅」というテレビドラマをとりあげる。ここで彼が注目するのは、出演者が「汚い」ということだ。ようするに、3日も同じパンツをはいている、ということで、当時はそれは肯定的に語られたんだ、と言う。
どういうことかというと、ちゃんとしていないということは、「飾っていない=建前じゃない=偽物でない」という意味で、

  • 本当の、真実の姿が示されている

と解釈されて、肯定されていた時代なんだ、と言うわけである。
ここから彼は「現代」に話を移す。現代の

は、一般には、恵まれない若者が、不良になってやっているんだろうと考えられている。しかし、調査をしてみると、その多くは、

  • 40代以上

だ、というわけである。つまり、上記の世代とかぶっていることに注目するわけである。
こういった、ある種の「逆転」は、非常に古典的な問題だ、と考えることもできるだろう。孔子に始まる儒教の伝統は、朱子学として大成した後、陽明学が登場することになる。この陽明学は、いわば

  • 心(こころ)

を徹底して肯定するわけである。つまり、「真心(まごころ)主義」である。日本の、江戸後期から明治にかけて、この陽明学が、いわば、日本の動乱を一貫して牽引したと言ってもいい。吉田松蔭は、「二十一回猛士となる」というのを号としたわけだが、ようするに、人生で21回、

  • めちゃくちゃなこと(=狂っていること)

をやる、と言っているわけである。それは、世の中の常識からは、とうてい受け入れられないことなのだが、

  • 真心(まごころ)

が、あまりにも純粋に、まっすぐに、きわまりすぎたために、もはや、どうしようもなく、つっぱしってしまう、と言っているわけで、まさに、陽明学の教えなわけですね。
そこから、彼の「テロリズム」の思想が始まるわけです。実際、吉田松蔭の教え子たちは、彼の「殉教」にインスパイアされ、江戸幕府を転覆するまで、その歩みを止めませんでした。そういう意味で、日本の歴史は、テロリストがテロを「成功」させた上に作られた、

  • テロを絶対に否定できない

形で、権力構造が作られているところに、その特徴がある、と言うこともできるだろう。
確かに、戦後、戦前の皇国思想はGHQにより規制され、世の中から一掃されたわけだが、この

  • 本音主義

は今でも残っている、と言うことができるだろう。その一番に分かりやすい例が、文芸批評だ。つまり、文学批評だ。彼らは、今でも、芥川賞直木賞を始めとして、文芸作品を批評して、その価値を議論する。しかし、少し考えれば分かることだが、

  • なぜ、その人の個人的な視点からの読みが、その作品の価値になるのか

は、よく考えてみると、かなり傲慢な印象を受けるわけである。
ある作品を、そういった「文芸芸術」内での、過去から積み上がった読解の歴史の中に位置づけるというとき、もはやその

  • 読み方

は一意に決定している、と言ってもいいものになる。つまり、それはもはや、「それ」を議論しているのではなくて、文芸の歴史とか、過去からの文脈を語っているに過ぎず、そもそもそういうことが語りたいのであれば、わざわざ「その」作品じゃなくてもよかったし、もはや、なんだってよかったんじゃないのか、といった「からくり」となる、なんてことは往々にしてあるわけである。
こういった、ある種の「モノローグ」化は、おそらく、最初のきっかけは、

  • 西洋哲学

から始まっているんだと思うわけである。デカルトがコギトと言い、その個人からの視点ということを強調し、その伝統は、カントの観念論を経て、フッサール現象学にたどりつく。そこにおいては、もやは、「一般」というのは、無意味な概念となり、全ては、

  • その人の、視点

に還元される。全ては「経験」だと言った、経験論者と同じように、全ては、「その人の体験」なんだ、となるわけである。
そして、こういった傾向の、極限として現代、最も大きな影響力をもった考えが、

である。それは、フェミニズムにおいても分かるように、完全な

  • 当事者主権

のことだと言っていい。フェミニズムとは、「女性」の権利を考える学問だ、となったときに、これは

  • 女性が「自分」のことを語る学問なんだ

と解釈され、女性たちが

  • 自分のことを語る

んだ、と自己主張したわけです。そうした場合、もはや、この学問について「正しい」ことを語れるのは女性だけなんだ、となった。女性でない男性が、フェミニズムを語ることはタブーとなる。なぜなら、彼らは女性じゃないのだから、

  • 絶対に間違う

から、です。女性のことは女性にしか分からない。だから、自分が女性であることは、自分がフェミニズムについて、男性の誰よりも、「正しく」この学問を語れることを意味することになる。
ようするに、

  • 傷ついた自分の自意識

を特権的に、この学問は擁護しなければならない、となるわけです。絶対にフェミニズムは、女性である自分の「本音」に

  • 答え

がある、ということになり、この学問の探求とは、「女性である自分の心」を、細心に、丁寧に、どこまでも、その深部を掘り下げて、その真実を探し、記述することだ、となります。そして、そこにおいては、そもそも男性の居場所はないわけです。
こういった文系の学問の傾向は、一つの流行だ、と考えることもできると思います。大きく言えば、こういった

は、ハイデガーによって、一つの頂点を極めた、と言ってもいいかもしれません。しかし、そのハイデガーは、ナチスドイツにコミットメントをし、WW2の惨劇に、哲学者として大きく加害者の立場で関わることになったわけです。
このことは、こういった「モノローグ主義の限界」を示唆しているように思うわけです。
ここで、最初の話を戻ってみましょう。ネットでは、文系のインテリによる、政府の新型コロナ対策に対する、罵詈雑言のオンパレードです。
日本の大半の働いている人は、飲食業や観光業なわけで、経済を規制することは、あまりにも大きな影響を与える。だとするなら、新型コロナ対策は「やってはいけない」ということになります。なぜなら、日本の経済に大ダメージを与えるから。そこから、日本政府は

  • 狂っている

という、罵詈雑言が浴びせられるわけです。
しかし、そう騒いでいる文系のインテリを見ていると気付くことは、彼らはがかなり「恣意的」に、情報の選択をしている、ということです。例えば、彼らは絶対に、上記の山際大臣や、西浦先生の

  • 言っていること

の文脈にそって、この状況を分析することをしません。つまり、彼らはそもそも、今のこの状況を、本気で理解したいと思っていないわけです。夜中も居酒屋を経営したい。この一点から、それを実現しようとしない政府が邪魔だ、と言っているだけで、具体的な高齢者や基礎疾患のある人を、どうやって社会から守っていけばいいのか、といった

  • 前向きな提案

がでてくることはないわけです。
なぜか。それは、早い話が、彼ら「文系のインテリ」は、今まで一度も、そういった理系の、感染症や公衆衛生の学問を、本気で、徹底的に勉強したことがないからです。
プラトンが、知のパラドックスと言ったように、人間は知らないことを知ることはできないわけです。ここに、上記で検討した、文芸批評の空疎さ、があるわけです。
彼ら文芸批評家は、そもそも、文系で、そういった理系のテクニカルな文脈を知らないわけです。そういった人が、まさに、理系のテクニカルな技術的な細部を議論している文書を

  • まるで、文学作品のように眺める

という態度が、こと、この対象に対しては、

  • まったく無意味だ

ということに気付かないわけです。それが「モノローグ」ということなんです。
私はこの

  • 知の貧困

の問題こそ、重要だと考えているわけです。
このことは、上記までの文脈から考えるなら、

  • 本音主義に対する、「不可視な他者」への畏れ

という形で整理できるでしょう。現象学的なアプローチは、そもそも、世の中に今の自分が理解できないものがある、ということを意識させないような「傲慢さ」があります。つまり、ここに文芸批評の

があるわけです。これが、プラトンの言う、知のパラドックスなわけで、モノローグは常に、自分をその円環に閉じ込めてしまうわけです。
だとするなら、私たちは、もう少し「謙虚」になるしかないわけです。自分が知らないことを知っている人がいるかもしれない。自分が理解できないことを考えている人がいるかもしれない。つまり、

  • 自分からは不可視な他者が、そこにいる

ということに対する「畏れ」をもって、日々を謙虚に生きる、という態度こそ、本質的に倫理的な態度なのであるのだろうと思うわけだけど、おそらく、それをどう語ったらよいのかにおいて、まだ、確立した学問的な定説がないことが今の

が隆盛な今の学問状況を許してしまっているのでしょう...。