匿名社会

近年のSNSで、特異的だったのは、やはり、Facebook だろう。つまり、彼らは、かなり意図的に

を作ろうとした。本気で、プラットフォームの使用者の「プライバシー」の

  • 公開

を「強制」しようとした。そして、彼らはそれを「正義」だと考えた。
この文化は、半分、Twitter にも流れてきている。ツイッターで、そもそも、「顕名」でやっている人たちの特徴ははんだろう? おそらく、もっとも分かりやすい特徴は、

  • 東大出身

だw ようするに、東大出身は「恥かしくない」から、顕名できるのだ。一種の「ブランド」なわけだ。自分を高く売るという目的で、東大出身「だから」顕名にする。まあ、こういった人に、大学教授が多いことは言うまでもない。
そう考えると、そもそも、「顕名」とは、

  • 反倫理的

な行為なんじゃないのか、という疑問が湧いてくる。なぜ、5ちゃんねるを中心として、日本のネット社会は、基本的に「匿名文化」なのかというと、

  • 本名は、すでに「子ども時代」に、大人社会によって、「偏差値&出身大学」によってラベリングさててしまっているから、すでに「類別」されているから

ということになる。だとするなら、まず、この日本社会を良くするためには、この「偏差値」を失くすことだ、と言えるだろう。
一般に、日本社会では、偏差値は「能力」と等価に語られる。しかし、考えてもみてほしい。偏差値とは、テストの結果を数値化したものだ。つまり、「結果」なのだ。これを能力と等値することは、その「結果」から、相手の中に潜在的に隠されている「ポテンシャル」を

  • 逆算

する、という行為なわけだが、そもそも「結果」は、たんなる事実でしかなく、その事実があるからといって、「相手の性質(=能力)が、計算可能なはずだ」と考えること自体が、傲慢なわけだろう。
子どもの頃の成績がどうだったかと、大人になって仕事ができるかは、

  • まったく関係がない

わけだ。大器晩成で、それまでは遅産まれで、いつも、ぼーとしていた子どもが、ある時、ちょっとしたことで「気付き」をもって、そこから、才気を働かせて、立派な社会人になるかもしれない。そして、往々にして、人間とはそういうものなのだ。
私たち日本人は、一回、

  • 子どもの頃の自分を捨てなければならない

わけだ。なぜなら、この名前は、子どもの頃の、偏差値社会によって、「ランク付け」されてしまっているため、この名前と顔を使っている限り、この子どもの頃の「カースト」という十字架に縛られ続けるからだ。ここから自由になるためには、一度、名前と顔を捨てなければならない。つまり、「匿名」にならなければならない。「匿名」だけが、この日本社会では、唯一、人々を

  • 自由

にする、というわけだ...。