クーカー

テレビシリーズの、アニメ「ラブライブスーパースター」の第1期が去年終わり、第2期の制作が開始されたアナウンスがすでにされている。そこで、全体を振り返って、このアニメのポイントってなんなんだろうと考えたとき、やはり、

  • 第1話から第3話

が中心なんだろうな、と思うわけである。そのことは、無印ラブライブにおける、第1話から第3話。穂乃果と、ことりと、海未の三人がライブを行ったのにも関わらず、ほとんど人が集まらなかった展開と、同型の何かとして描かれているところにも、対応したものがある。
スーパースターの第一話は、「やさぐれ」かのんの登場から始まる。中学の頃、近所に新設される、結ヶ丘女子高等学校の音楽科に入学することが

と、同級生の前で語る場面が描かれた後に、入試の実技試験で、極端な上がり症で、歌うことができず、不合格となったところまでが描かれ、そのまま、結ヶ丘高の「普通科」の制服で、初登校する場面となる。
ようするに、夢が破れて、

になった、という設定なのだ。
さて。ここで、前回とりあげた、「本音主義」の話をしてみたい。陰キャとは、つまりは

人、という意味になる。
人前で歌を歌うというのは、人前なんだから、「自分を飾る」必要がある。演劇の俳優が、その役になりきって、「仮面をかぶる」ように、大勢の人が求めているものに「答える」形で、その「要求されているもの」になりきる演技をする、ということになる。つまり、陽キャは「本音主義の反対」ということになる。
対して、陰キャは、そういった「建前」を演じられない。人見知りもそうだが、そもそも、人前に出られない。それは、「陽キャ」たちの、心ない言葉に傷つけられた、過去のトラウマが、自らの行動を妨げるわけである。つまり、陰キャは「本音主義そのもの」ということになる。
しかし、それに対して、陰キャはそういった自分を「分かっている」という側面がある。つまり、こういった自分の行動が、ある部分では自分の「弱さ」であり「足りない部分」であることを分かっていながら、それを変えられないことに、あがき続けている、という自嘲の側面がある。
さて。
そんな彼女が通学途中で、いつものように、「歌い」だしたところを、たまたま、通りがかって、それを聞いたのが、上海から日本の結ヶ丘高の普通科に入学してきた、唐可可(たんくうくう)だった。
彼女が日本に来たのは、サニーパッションという、日本のスクールアイドルにあこがれて、というものだった。そして、日本に来て、自分もスクールアイドルをやれたら、と考えていた。そんな彼女が、かのんに出会って、その歌声に

  • 一目惚れ

した、というわけである。くうくうちゃんに誘われて、一度はスクールアイドル活動を一緒に行うことに同意したかのんであるが、やはり、大会直前になって、人前で歌えない症状に見舞われ、そんな自分のなさけなさに、どうしても、くうくうちゃんの前で感情をあらわにしてしまう:

かのん:でもね。私思ったんだ。このままじゃ、一位をとることってものすごく難しい。そうしたら、くうくうちゃんの夢がここで終わってしまうかもしれない。私のせいで。せっかく上海から来て、やりたいことがあって、こんな夢に向かって始まったばかりのときに、私のせいで、私のせいで夢をあきらめなければならないとなったら、もうしわけなさすぎるよ。やっぱり、私はあしでまといにしかならない。それが分かっているのにステージに上がるなんて、できないよ。ごめんなさい、くうくうちゃん。ごめんなさい。
くうくう:自分のことを悪く言わないでください。かのんさんに心を奪われた、私までかわいそうになっちゃいます。
(第3話「クーカー」)

かのんにとって、くうくうは「不可視な他者」である。急に、海外からやってきて、何者かも分からない相手である。外部から、「他者」として、突然彼女の前に現れた存在である。
陰キャがなぜ陰キャなのかは、上記の引用でかのんが言っていることに、ほとんど全てが現れている。陰キャ

  • 優しい

のだ。自分が人を傷つけることに苦しみ、どうしていいか分からず、今ここにいるに過ぎない。そういったかのんを、中学の先生も、高校の音楽科の実技試験をした先生も、彼女のそういう本質を理解しなかった。唯一、くうくうだけが、彼女という「外部の他者」だけが、そんな彼女の優しい本質を発見したのだ...。