機動戦士ガンダム THE ORIGIN 展

ところざわサクラタウンでやっている、機動戦士ガンダム THE ORIGIN 展を見に行ってきた。
そもそも、この作品は、「ファースト」と呼ばれている作品が、1970年代の作品だから、すでに、半世紀近く前の作品である。さらに、安彦さんのこの漫画も、10年近く前の作品であって、なぜ今というのはあるわけだ。もちろん、その理由は今年初夏に公開される、「ククルス・ドアン」をにらんで、であるわけだが。
その上で、展示されている内容は、漫画の原画であり、連載当時に描かれた表紙絵などだったわけだが、展示内にはさまれる、それぞれのコメントも参考になった。
そこで思ったのだが、そもそもこの、安彦先生の漫画を読んでいる人というのは、どれくらいいるのだろうか? この漫画は、23巻くらいあって、けっこう長い。しかし、最初からちゃんと読んでいくと、ちゃんと、物語になっていて、話としての整合性をもっている。つまり、これはこれで、なにを話そうとしているか、なにを伝えようとしているのかが、おぼろげながら見えてくる、という構造になっている。
おそらく、この「ファースト」であり、「オリジン」には、二つのベクトルがあるんだと思っている。
一つは、当時の子ども向けおもちゃ市場の動向である。他のアニメで、超合金などのロボットアニメが作成されていた状況で、ガンダムは、そういったロボット物のアイデアを、ちょうど

  • WW2

の「アナロジー」として、当時の戦車や飛行機を、モビルスーツに代替した「戦争作品」を作れないか、という需要があった、ということなのだと思う。実際、モビルスーツの開発は、当時の日本でも中心的な産業となっていく、「自動車」の機種開発競走のアナロジーを感じさせる見せ方になっているわけで、当時でも、こういった視点には、それなりのリアリティがあった、ということなのだと思う。
もう一つが、WW2の記憶から来る「厭戦的な雰囲気」だと思っている。
当時、1970年代は、まだ、WW2の記憶をもっている、1945年の記憶をもっている世代が多くいた。そういった人たちは、心底

  • 戦争にこりごり

していた。つまり、そう簡単に、戦争を肯定的に語るなんてできなかったのだと思う。
そういった雰囲気は、この作品にもあらわれている。作品の序盤で登場するアムロの母親や、カイ・シデンが関係をもつことになる、ちはるの存在など、ところどころで、

  • もう戦争はこりごり

といった描写が見られる(その代表として、ククルス・ドアンを考えることもできる)。実際、70年代の全共闘運動も、そういった戦争の雰囲気をどこかまとった運動だった。つまり、当時はまだ、戦争に対する「緊張感」がずっと維持されていたのだ。
そして、そういった厭世観が、このガンダムという作品を傑作としたのだろう、ということはうなづけるわけだ。
(ところが、それ以降の世代は、こういった厭戦意識を共有しない人たちが増えていくことになる。東浩紀先生も、以前、ガンダムは苦手と言っていたが、彼はエヴァについては、あそこまで饒舌に語りながら、ガンダムはほぼ語らない。それは、彼がそもそも「好戦的な」、保守派の言説に共感する言説を続けてきたことと深く関係している。彼は、日本は軍隊をもって、「世界中の圧政に苦しんでいる人を助けに行くべきだ」という主張をしていたわけだが、こういった世代になると、その「建前」こそが、満州事変であり、世界侵略の口実だった、という緊張感がなくなる。全部、「個人的」な心の中の文学的な操作のレベルに還元されてしまって、エヴァ的なテーマの解決が「世界救済」と同一視されるようになる。
なぜ、こういった低レベルな言説が再発されるようになったのかだけど、ようするに「上級国民」の思想が復活してきた、という部分に危険性があるわけだ。高学歴でエリートになればなるほど、大衆がしいたげられることに、なんの苦悩もなくなる。どうせ、頭の悪い奴らが、それ相応の扱いを受けるのは、「しょうがない」となって、そんなことより、自分たち上級国民の身分を守れ、という本音主義が強くなる。そして、このことと戦前の「再評価」は同値となる。戦前の、軍隊エリートは「正しかった」となる。それは、「エリートだから正しい」というロジックになっているわけで、これに対応して、今の民主主義を批判する。実際、東浩紀先生は以前、ツイッターで、靖国神社遊就館の展示によせて、日本は日米開戦までは「うまくやっていた」と評価していたわけだが、その意図は、日米開戦は非合理的だが、それまでは、日本は合理的だった、という含意となる。彼はそういう意味で、戦前の帝国日本軍の「復活」を、本気でやるべき、と思っているのだ(帝国日本軍の特徴は、天皇の神聖性に対応して、「天皇の軍隊」という名目で、「天皇の軍隊の神聖性」を正当化したところにある。国民が天皇に対して、従順の意を示すのと同時に、それと同じ態度を「天皇の軍隊」である、帝国日本軍に対して、国民は従順でなければならない、と主張された。戦前の日本は、そういう意味で、軍人が国民を好きなように暴政をふるうことを許された世界だった)。明らかに、彼には「厭戦思想」がない。非常に好戦的で、どんどん世界中に戦争をけしかけて、「<悪い支配者>から、世界中を日本が救うべきだ」と主張している。そして、こういった彼の、独裁者に対する「楽観的」な態度は、彼の一般意志2.0という本の、反民主主義であり、独裁政治に対する「好意的な」態度にも強く現れている。)
さて。ここで、ファースト・ガンダムの作品構造そのものを考えてみたい。明らかに、主人公は、シャアだ。いや、シャアであり、セイラさん、なのだ。それは、そもそもこの混乱は、ザビ家による、ジオン・ズム・ダイクンの殺害、「クーデター」から始まっているからだ。
では、主人公のアムロとはなにかというと、テム・レイという、ガンダムの開発者の「技術職」の父親の子どもであり、この作品において、このアムロの父親は、徹底して「小人」として、ちっぽけな、つまんない男として描かれている。つまり、アムロには、そういった物語がないのだ。彼はたまたま、そういった繋がりの関係で、ガンダムパイロットとなっただけで、この戦争の中心にいる人物ではない。彼はこの物語と、直接は関係ない。
ではなぜ、製作者サイドはシャアを主人公にしなかったのかだけど、どうしてもできなかったからだ。なぜなら、彼は「仇討ち」を動機として行動しているのだから、現代の価値観では、どうしてもそれを正当化できないからだ。
そういった観点で、この安彦版ガンダムを見てみると、特筆すべき差異が後半に描かれる。それは、セイラさんが、自らを、ジオン・ズム・ダイクンの娘であることを公表する場面が描かれていることだ。
これは、よく考えてみると、かなり大きな差異に思われる。ジオン公国

  • 正当化

の問題は、本当はこの作品の中心の問題だったはずなのだ。そう考えると、シャアでありセイラは、この問題に直面しなければならなかった。そして、その一貫として、ザビ家の「扱い」が問われるべきだったのであって、このテーマから、この作品は目をそらせるべきじゃなかった。
このことが、なぜ重要かというと、なぜ、安彦さんが過去編を書いたのかの一つの理由として、ランバ・ラルの問題がある、と言っている。ランバ・ラルがセイラさんと偶然、対面する場面は、この作品のハイライトと言ってもいい。ここで、ランバ・ラルは「びっくり」するわけである。

  • まさか生きていたとは思わなった

と。彼は、ジオン・ズム・ダイクンが亡くなるまで、幼いシャアやセイラと、まさに、実の父親のように、忠誠を尽し、奉仕していたからだ。
彼は驚いたと同時に、自らの「運命」を悟ったわけである。つまり、彼は自らの「責任」を受け入れねばならなかった。それが、ガンダムとの戦いによる「戦死」という形の

  • 自決

だった。もはやこの責任は、自決によってでしかまかなえられない、という気持ちがそうさせたのだ。
そして、こういった気持ちは、本当はジオン公国のほとんどの国民にとっても、少なからずあったはずなのである。つまり、十分に、シャアやセイラが、

  • 正当なる後継者

として、ジオン公国の継承者として、ザビ家を追放して、連邦軍と「和平」を結ぶ可能性はありえたわけだ(よく考えてみると、セイラさんのこの行動という、「正史の変更」は、それ以降のゼータガンダムなどの物語を成立させない、という意味で、非常に強いメッセージを感じる。安彦さんは、そもそも、ファースト以降のガンダムを認めていない。彼は真の意味で、ファーストで、このガンダムという作品を「終わらせる」固い意志で、この作品を再び世に問うている。この強い意志が、奇跡的な、この作品を作りあげている)。
大事なポイントは、この「戦争回避の可能性」の弁証法だ。当時の「厭戦思想」は、徹底して、戦争に対して否定的だ。しかしそれは、リアリズムから目をそむけることを意味しない。戦火の拡大は、その現場をよく見てみると、シャアの私怨が関係しているなど、ほとんどが

  • 現場の暴走

をひきがねにしている。つまり、中央がコントロールできていないことが、本質だ、として描かれているわけである。戦争は、本当に「やらなければいけない」ことなのか? この問題を、徹底的に問いつめることで、ある意味で、この半世紀の

  • (世界)戦争のない時代

を先取りする思想を提示していたんだと思うわけである。そしてそれは、1970年代の、全共闘世代が当時共有していた、厭戦思想の徹底したラディカリズムが、今読み直してもリアリティを失なっていない強度を提示していたんだと思うわけである...。

追記:
改めて、アムロが主人公の意味を考えると、アムロというより、WBのほとんどが、「民間人」だということが重要だつたんだと思うわけである。つまり、製作者サイドは、職業軍人同士の戦いを描くことに興味がなかった。そうじゃなくて、戦う理由がない、民間人が、生きるために、抵抗しなければならない姿として描いた。
ここにも、「厭戦思想」の強力な影響が見られる...。