ククルス・ドアンの島

6月の最初に公開された映画である、「機動戦士ガンダムククルス・ドアンの島」は、公開日に見に行ったのだが、改めて、映画館で見た。なぜ、二回目を見たのかであるが、大きな意味はないかな。まだやっていることを知って、とりあえず、見てみようかな、と。
うーん。おそらく、私は一回目を見たときは、これをどう受けとめるのかの準備ができていなかった、という印象がある。まず、「子供」が多く出てくる。次に、ガンダムは活躍はするが、それが、どこか、

  • 戦後のヒーロー物

のような「演出」がされている、という意味で、どこか

  • 先祖返り

をしている、という印象を受け、うまく、ストーリーを受け入れられなかった、ということなんだと思う。
ここで、映画の内容について書いていこうと思うのだけど、その前に、この「ククルス・ドアン」がそもそも、なんだったのか、ということを書いておきたい。
私の子供の頃のファースト・ガンダムの思い出ということでは、思い出してみると、私は当時、ほとんど、テレビシリーズを見ていなかったと思っている。もちろん、再放送のことなのだが。私が見た思い出は、三部作の映画ですね。これは、間違いなく、三つとも見ている。ただ、それを見た時期については、よく覚えていない。私の田舎で、ガンダムということでは、むしろ、

の方の記憶が大きい。まあ、おこづかいもそんなにもらえなかったので、そこまで作れたわけではないんだけど、いろいろ、どれにしようか悩んで買ってたと思う。
そして、テレビシリーズの一話が、ククルス・ドアンなのだけど、そういうわけで、私はほぼ記憶にない。もしかしたら、どこかで見たのかもしれないけど、ほとんど記憶になかったと変わらない。
そもそも、私の子供時代は、そんなに家でアニメを見れた環境ではなかった。お金持ちの家でもなかった。もちろん、当時は録画もできなかったし、夕方に学校から帰って見なければならないわけで、いろいろ学校でスポーツとかもやっていたし、そこまでして見なかったわけだ。
また、学校を卒業した後も、私はガンダムを追うような、いわゆる「ガノタ」ではなかった。言ってみれば、ガンダムは「卒業」したのと変わらなかった。他のアニメは、いろいろ見ていたわけだが、いろいろな新しいガンダムのシリーズを見る、ということもやらなかった。
そうして、時は流れて、改めてガンダムについて考えるようになったのは、つい最近、と言っていいと思う。まず、ネットでの動画配信サービスで、ゼータガンダムダブルゼータを見た。ファーストのテレビシリーズも見た。そのときには、安彦さんのオリジンの漫画があり、アニメを映画館で見た。
確かに、私のガンダム歴は安彦さんに似ていた。ファースト・ガンダムで必要十分だった、と言ってもいい。そういう意味では、岡田斗司夫がユーチューブの配信で、安彦さんのオリジンを批判する流れで、ファースト以降のガンダムを、ある種の、富野監督の「私小説的な意味での芸術作品」として評価しているのは意外であった。まあ、それが「オタク」として、今まで「つきあって」きたファンにとっての肯定の手段として、もはや、そうとでも言うしかない、という側面があったんだと思う。
対して、安彦さんはファースト以降、ガンダム制作に関わってこなかったし、私はどちらかというと、安彦さんのそれ以降の漫画作品などの方をフォローしてきた側としては、オリジンのような、ああいったリメイクというのは、理解できた部分がなくはなかった。
その岡田さんが、ファーストのククルス・ドアンの回について言及している配信があるんだけど、彼はそこで、ファーストの

  • 最終回

と、ククルス・ドアンの関係に言及している場面がある。ククルス・ドアンは、言わば、「隙間回」と呼ばれるもので、当時、シリーズものである限り、箸休めに、手を抜く回がどうしても必要とされていた。そこで、脚本家が描いた内容は、どこか当時のリアリティだった

の雰囲気を現す脚本になっていた。つまり、「嫌戦」である。ベトナム戦争は、大義のない戦争だった。アメリカにとって、なぜベトナムで人を殺しているのかを、正当化する大義がなかった。そのため、強烈な反戦運動アメリカで若者を中心に起きていた。つまり、徹底して、戦争を否定する雰囲気が満ちていた。
ドアンと一緒に暮らしている子供たちはみんな、「戦災孤児」である。つまり、この戦争で父親、母親、親族を失った。いや、映画でも回想として示唆されているが、この子供たちは、ドアンの部隊が襲った町で、ドアンたちに殺されて、「戦災孤児」になった子供たちなわけだ。
だから、ここには強烈なアイロニーが描かれている。
テレビシリーズ版では、最後でドアンが子供たちの前で、子供たちの親を私が殺したんだ、と打ち明けて、子供たちがショックを受ける場面があるが、ドアンにはたんに子供の面倒をみてあげているという「いいこと」をしている、といった単純な心じゃないわけだ。
しかし、他方において、ここではどこか

  • 戦後

を思わせる風景が描かれている。
岡田の最終回の分析は、誰も乗っていない、だけど、電子機器が動いているコアファイターが、宇宙空間に流れていくところで終わっている意味を考察するものだった。コアファイターは戦争の道具の象徴が。それが、人間に操作されずに、人間から離れていくことは、「戦争を止める」ことを象徴している。まさに、ドアンのザクを、アムロが海に捨てる場面を想起させるものである、と言える。
実際に、ファーストの1年戦争は、その後「停戦」が行われる、というナレーションがされたまま、それで終わるわけで、つまり、この作品は、

  • 戦争の終わり

を描いている意味で、これで、かなり強い意思で「切断」がされている、とも読めるわけである。
ファーストは、そういう意味で、一方で戦争の悲惨さを描きながら、どこか、ベトナム戦争を思わせる、戦争に対する「嫌戦」の雰囲気であり、戦争の終わりを描くことによって、

  • 戦争のない世界

に対する、強い「想起」を促しているという意味で、ストーリーとしては、うまく、ここで切れているんですね。
このことって、けっこうおもしろくて、例えば、安彦さんのオリジンでは、一年戦争後のそれぞれが描かれるわけだけど、そこにはセイラさんも出てくる。そして、その描写は、明確に、

を思わせるような描写でもあったりする。
そこで、今回の映画であるが、まず、雰囲気として「戦後」なんですね。それは、残置諜者という言葉が出てくるが、ある意味で、ある「戦場」になった場所に「残さ」れた、という意味なので、少なくとも、その「戦場」での戦争が終わっている、ということを示唆しているわけですね。つまり、この残置諜者という言葉がはやったという意味でも、ベトナム戦争の「戦後」を示唆しているわけ。
それは、WW2以降の戦後の日本のエンターテイメント自体がそうだったわけで、これらは、強く戦後を意識した作品が多く作られている。
今回の映画において、まず、ドアンのザクや、ガンダムは、子供たちにとっての「ヒーロー」として描かれている。まさに、戦後のドラマが描いてきた「ヒーロー像」であって、むしろ、ファーストガンダムが戦争のリアリティを目指す中で捨ててきたものだったわけだろう。しかし、逆に考えると、それは「戦後」の意匠なんだと思うわけである。つまりそれは、「反戦争」だから、どこか戦い自体が、パロディのようになる。
平和は、「戦後」のイメージとして語られない。しかしそれは、単純に「幸せ」ではない。むしろ、戦争の「悲惨さ」が、逆の重力として、平和のイメージを私たちに強いる。ドアンが子供たちを育てているわけだけど、その子供たちの親を殺したのがドアンなわけで、決してこの関係は、単純な「愛情」といったものではない。しかし、それを「戦後」が逆反射する。戦争があまりにも悲惨だったから、戦後はその反作用として実践されていく...。