生物<個体>説

生物が「個体」ではないのか、という仮説について、詳しくない人も多いかもしれない。これについて、詳しく説明した本として、エオリオット・ソーバーの『進化論の射程』というものがある。ただし、ここでこの本の著者が発見した仮説だ、と言っているわけではない。ただ、基本的に、この著者はこの仮説に賛成している、という立場で検討している。
「個体」説を説明する場合に、その「反対」を説明した方が、その違いが分かりやすい。その反対は、

と呼ばれている。例えば、化学で「金」の定義を考えてみればいい。金とはなにかは、化学では元素記号で決定されている。そこで、なるほど、と思うわけである。だったら、「人間」も同じように定義しなければならないし、それが「できなければならない」と思うわけだ。
人間とは何か、人間の定義とは何か、これを定性的に記述することは可能なのか、という問いは、生物とは何か、生物の定義とは何か、を定性的に記述することに還元される。
例えば、人間を定義するときに「生殖」行為に注目することはできる。それで、子どもが「できた」ということは、この二人は人間「だった」と言うことができて、また、その子どもがセックスで子どもができたら、その二人は「人間だった」という形で、

  • 後から

決定していく、というわけだ。
しかし、この定義は上記の本質主義と相性がよくない。というのは、これは「過去から遡って」そうだと言っているのであって、本質主義に求められていたのは、今ここで「決定」するための必要十分な条件だったからだ。
なぜ生物の定義と本質主義が「相性」がよくないのかというと、

  • もともと私たちが「そう」いうふうに、この言葉を使ってきたから

というのがある。生物学者は、ある人とある人がセックスをして産まれた「存在」を、

  • その人と、その人の「子ども」

という形で

  • 定義

してきたのだ。つまり、生物学者は、こういった「歴史的事実」によって、生き物の樹形図を作る作業のことを生物学と呼んできた。つまり、生物は、こういった系譜の作成によって、その中に位置付けられたものを「生物」と呼んできた、という事実性だけが問われてきたのであって、それ以外に生物の定義はないのだ。
もしも人間を「本質主義」によって定義を考えてみよう。ある人は、「肌が白いのが人間だ」と定義したとしよう。しかし、すぐに、黒人がいることが分かる。では、この定義は駄目だ。次に、目の色が青いことが人間の定義だと言ったとしよう。しかし、亜麻色の目の人がいるから、この定義は駄目だ。じゃあ、なになら大丈夫なの? この問いは、

  • はるか未来において、人間はどうなっているの?

という問いと関係してきてしまう。はるか未来においては、人間は手は一本になっているかもしれない。いや、もはや、その時には、人間でさえ、自分たちを「人間じゃない」と言っているかもしれない。ん? ここで、私たちが考えたかったのは「人間の定義」だったのに、もはや、「誰が何を人間と呼んでいるのか」の問題に変えられてしまっているorz
この事情は「民族」についても同じだ。私たちは日常生活の中で、廻りは日本人ばかりの中で生きてきた。だから、同じような顔をした、同じような背丈の奴ばかりだった。この中において、誰が「自分たち」かを見分けることは容易だった。実際、このことで苦労することはない。そういう意味で、人間の「実在」は自明だった。
しかし、である。そういった中においても、数は少なくても、いろいろと違った人がいなかったわけじゃない。江戸時代の少し前なら、キリスト教の宣教師が日本に来ていた。すると、彼らはどう見ても、見た目が違っている。それを同じ「人間」と呼んでいいのかもよく分からない。
こういった事情を、社会学者は「統計」による実在論で整理した。民族は実在しないというより、統計的に定義できる、と。もしかしたら、一人一人はこれらの特徴の「すべて」は該当しないかもしれないが、これらの特徴の多くに該当する人が「統計学的」に多くいるなら、その「民族」性の

  • 実在

を議論してもいいんじゃないのか、と緩く考えたわけだ。
しかし、このアプローチには欠点があって、それは、「ある一人の人間」が、その「民族」の一人かどうかを

  • 決定できない

ということだw ここで議論しているのは、統計学的なアプローチであって、あくまで、

  • 集団の特徴

なのだ。つまり、ここでの議論は「民族」の実在論であって、一人一人の構成員が、どこに所属するのか(本質主義)については、

  • 原理的に「決定できない(決定をあきらめている)」

ということだ。
ここまで聞いて、疑問に思うかもしれない。化学の金は、本質主義で定義できた(ように見えた)。だったら、人間だって同じようにできるはずじゃないか。それができないように思えるのは、たんに、

  • 科学の進歩

が、まだ低い段階だからなんじゃないか? つまり、この世界は全て「本質主義」によって、

  • はるか未来

においては決定されているんじゃないのか、と。
こういった考えを、多くの場合、功利主義者や反カント派は採用してきた。言わばこれは、キリスト教の信者の「信仰」に近い、

に近いものと考えられる。人間は、はるか未来に「進歩」する。そうすると、いずれは、人間は「神に近づく」というわけだ(まさに、ヘーゲル精神現象学で描いたストーリー、絶対精神だ)。どんな科学の難問も、いずれ解決される。今解決できていないのは、まだ、謎が発見されていないからだ、と。
これに対して、カントが唱えたのは「人間の理性の越権」だった。人間の理性には限界がある。つまり、なんでもなんでもが分かるわけじゃないんだ、と。しかし、このカントの主張は、ある意味で、古代ギリシアの(プラトンによって偽物に変えられた方じゃない、本当の)ソクラテスが言っていたことでもあった。
この事情は、カントの「観念論」について、ずっと、哲学者は「攻撃」をしてきたのにも関わらず、近年の

の「結果」が、著しく<観念論的>となっているところにも現れているように思われる。私たちの日常概念としての「観察=見る」は、もともと、光による媒体的な機能が前提とされている。ところが、量子力学のミクロの世界にまで行くと、そこでは、この「観察=見る」自体が、このミクロの物理系と

  • 分離できない

関係になっていて、この「観察=見る」行為と、物理系との

  • 相互作用

を考えざるをえなくなってしまっているわけで、そもそもの「前提」が成り立たなくなってしまっている。カントの観念論は、ある程度においては、かなり深く考えられていたわけで、そこで言いたかったことは、

  • 物自体という、この世界の「実体」などという前に、私たちの脳の中の情報処理系が、この世界の「イメージ」を作って、<それ>との相互作用で、日常を生きている

という、どこか、量子力学の物理系と「観察=見る」の相互作用と似た構造で考えていたことだ(言うまでもないが、フロイトマルクスも、このカントが敷いたレールの上で考えていたのであって、明確にカントの後継者なわけだ。フロイトの心理学は、明確にカントの観念論を敷衍した構造となっているし、マルクス貨幣論も、カントの哲学の産物と言っていい)。
こういった事情をどう考えるのかということだが、この事情を一番よく整理したものとして、

があると思っている。オートポイエーシス論の前提は、この「オートポイエーシス・システム」というものの

  • 全てのメカニズムが本質的に理解できない

ことを前提として、たとえそうだとしても、

  • そのインターフェースにおける、オートポイエーシス・システムの「変化」の過程は<記述できる>

という所にあると思っている。言わば、上記までで述べてきた、生物個体論における、系統樹による生物の「記述」というのは、オートポイエーシス・システムへのアプローチとしては正統的だ、ということになるだろう。
オートポイエーシス・システムは、その

  • 全てのメカニズムが本質的に理解できない

わけだが、そのことは、そもそも生物がなぜ存在できているのかを、完全に記述できていないことと同値となる。それは、今だに、さまざまな化学的、生理学的な機能の仮説が立てられ、実際に発見されながら、今だに、なぜそれが存在するのかが分からないようなものが

  • 無限にある

という科学の情況を考えてみれば、そもそも、こんなものの「実在論的な定義」が、どうやったってやれそうに思えない、と考えることと同値なわけだw
しかし、たとえ「そういう存在」だったとしても、そういう存在なりの学問の対象としてのアプローチをしないわけにはいかない。つまり、そういった対象にたいしも、それはそれとして、システムとして考察の対象とできないか、というのが、オートポイエーシス論のアプローチだった...。