反<才能>論

「才能」という言葉が、日本の「教育」の文脈でどのように使い始められたのかについては、本田由紀という社会学者が本で書いているし、このブログでも、とりあげたことがある。そこで彼女が主張していたことは、この言葉が「うさんくさい」ということだ。
ところが、である。
今の日本を「支配」しているインテリたちは全員、進学校に入って、東大に入ったエリートばかりだ。そして、彼らの

は、この「才能」という言葉にある。なぜ彼らが偉そうにしているのかは、彼らが「東大に入った」からにあるのであって、それ以上でもそれ以下でもない。つまり、彼らは

  • 自分は、同学年の他の日本人と違って「才能」がある

と「信じて」いるから、そういった態度をとっている、というわけだ。
しかし、もしもそういった「才能」というイデオロギーに対する「信仰」が、この社会を歪めていて、多くの人を生きづらくしているとするなら、やはり、この問題に対する、なんらかの「回答」を社会に届けることには意味があるのかもしれない。
「才能」とは、言わば、「微分」のようなもの、と言っていいかもしれない。
ある走っている人が、10秒後に、少し前に進んで、位置が変わることは、その10秒が経過する前には「まだ実現していない」ことであるが、その時の「加速度」を計算できれば、ニュートン運動方程式によって、予測できる。
なるほど。だったら、才能には「根拠」があるということになって、才能の「実在」が証明された、ということになる、と思うかもしれない。しかし、これは「才能は微分のアナロジーだ」と言っているのであって、実際に「才能」というものが実在している、ということを言っているわけではない。
例えば、多くの場合、成績が優秀な子どもは

  • むちゃくちゃ、家に帰って、予習・復習をしている

ということを観察するだろう(少し考えてみよう。社会人になって、家で仕事をしていたら、ブラック企業だろう。だったら、なんで家で勉強をするんだ? 子どもにはもっと、いろいろなことをやりたいと思っているだろう。テレビを見たり、外で遊んだり、本を読んだり。これを普通と思っている人は、なにか欠陥があるんじゃないか。もしかしたら、ここには「幼児虐待」的な側面さえあるかもしれない...。)
。いや。そこまでやれば、東大くらいなら合格するんじゃないか、というくらいに予習・復習をしていたとするなら、それは「才能」と呼べるのだろうか? 私たちは一般的に、才能とは

  • 二人が「まったく同じ学習」をしたのにも関わらず、成績に差が出る場合

と想定しているはずだ。ところが、言ってみれば、多くの場合、成績優秀者は、そういった「ずる」を行っているw これを「ずる」と呼ぶことに違和感をもつ人もいるだろう。努力「できる」ことも才能だ、と。みんなが、遊んでいる間も勉強するなんて、偉いね、と。
しかし、ここで議論しているのは「才能」の話だ。つまり、才能の「定義」だ。
なぜこれが重要なのか? 才能は「人々の選抜」において、大きな要素となっている。誰を大学に入学させるのかは、その人が大学に入ったときのパフォーマンスに大きく影響を与える。それは会社でも同じだ。将来、この会社を支えていくような活躍ができるかは、入社時に「計測」される「才能」によって、分類され、この分類によって、ふるい分けられる。
しかし、そういった程度の話なら、もしかしたら、どうでもいいのかもしれない。今だって、IT系はずっと人手不足なわけで、どっちが選抜されているのか、みたいなところもあったりする。
例えば、こんな例を考えてみよう。今、世界中に株式会社は無数にあるが、それらの会社が50年後に存在しているものは、ほとんどない。今のIT系の企業も最近現れたものばかりだ。このことは、それだけ「技術革新」が活発であることを意味する。古いビジネスモデルは新しいアイデアによって、時代遅れになって、その企業は倒産する。
すると、ある謎が生まれてくる。毎年採用していた社員は何をやっていたのだろう? 彼らは、会社存続のために採用されていたのだと思っていたが、ほとんど全ての会社は、何十年ももたない。だとするなら、ここでの「才能」を測っていた基準とはなんだったのか、ということになる。
学校でのテストを思い出してみよう。そこでやっていたことの「ほどんど」は、

  • 教科書に「書いてある」内容の丸暗記

だ(その証拠はいくらでもある。そもそも、テストで教科書をもちこむことはNGなんだがw)。どこまで覚えているかで、「点数」にしている。これが、会社を存続させるイノベーションの発明になんの関係があるのだろうw 言ってみれば、学校のテストがやっていることは、

  • 日常的な事務手続を「失敗なく」「効率的に」やれるか?

を測っているだけ、という意味で、そんなことはコンピュータなり、外注会社にやらせればいい(その会社の存続に関係ない)わけだ。測っているものが、

  • その会社の存続に関係ない

属性だとするなら、ここで「才能」と呼んでいるものが、まったく、その「目的」に適合していないかもしれない、という疑惑が生まれてしまう。
なぜ、「才能」という言葉がダメなのかは、単純に定義の話だけではない、ということは言っておく必要があるだろう。ダメなのは「才能が<ある>」という

にある、と言った方がいい。つまり、「定義できない」というところにある。つまり、

なんだ、ということになる。この辺りについては、次回で「生物個体説」を分析する中で考えてみたい...。

追記:
学校のテストの内容の「ほとんど」が「丸暗記゙」を問うもとであるということは、ある種の「病気」で、

  • なにもか、見たものを記憶してしまう症状の人

が、一番になる、ということが分かるだろう。実際、大学の先生などでは、ADHDなどの精神科に通っている人が多い、ということが言われたりする。おそらく、こういった特徴と、こういった精神科の病気には深い関係があるのだろう...。