白井仁人「量子力学の全体論的なアンサンブル解釈とベルの不等式」

ここのところ、ノーベル物理学賞で、「量子もつれ」が受賞したことに関連して、量子力学が人口に膾炙してきている。まあ、いろいろと大衆向けの特集が雑誌で組まれたり、という話だ。
ただ、「量子もつれ」の話は、量子コンピュータや、量子テレポーテーション、量子暗号などと関連して、

  • 工学

の「応用」が今、さかんに「実用化」されている関係で、どんどん

  • 商品

となっているわけで、これを以前のように「理論=哲学」の話として(形而上学だとして)、聞き流してばかりもいかなくかってきている、ということが大きいのだろう。
そういった場合に、こういったことが、結局なにを意味しているのかについては、どうも、一般の人を置きざりにして、世の中が進んでしまっているようにも思われる。
大事なポイントはなんだろう?
量子力学は、量子のレベルのミクロの世界の物理法則に関係している。そうした場合、私たちの「日常」の感覚での「会話」では、

  • 直観

として、理解できない現象が起きているように思われる、ということだろう。
それは、例えば、哲学の分野で有名な「現象学」というのを考えてみてもいい。現象学において、彼らが何を言っているかというと、

  • 自明

であること、ですね。つまり、私たちが子どもの頃から、自明に「感覚」してきた、さまざまなコトから、

  • あらゆる、この世界

を「類推」していいんだ、と言っていたのが、現象学だった。逆に言えば、「それしかない」と。そこから、ハイデッガーの哲学などが始まっているわけだ。
ところが、いざ、量子力学を理解しようとすると、こういった方法がうまくいかない。そこで、精神が狂ってしまう学者とかまで現れる。
なぜ、うまくいかないのかというと、そもそも、量子力学で扱っている「対象」が、私たちが「自明」な、「日常」の感覚<自体>を成立させている

  • 光(=光子)

などを「対象」としているから、なんですね。つまり、

  • 媒体

そのものが、ここでは対象になっている。すると、ポジとネガじゃないけど、概ね、世の中っていうのは、まったく違ったものになっちゃうんですね。
量子力学が、今までの私たちの「常識」が通用しないことは、多くの場合、

  • 文系

の人たちの、アイデンティティ・クライシスをもたらしている。彼らが「常識」だと思っていたことが、当たり前のように通用しないことが、次々と起こる。
ところが、である。
ここで考えてみてほしい。大事なことはなにか? つまり、今のこの情況は、本当に「危機」なのか、と。
よく、私たちは「矛盾」という言葉を使う。それと同時に「パラドックス」という言葉も使う。そして、この二つは、まるで同じことを言っているかのように受け取られているが、しかし、この二つは違う。
前者は、論理の破綻という意味で「危機的」である。ところが、後者はそうではない。パラドックスとは、

  • 私たちの今までの常識から考えると、説明できないことが起こっている

と言っているのであって、だからといって、それが「矛盾」であるとは限らない。
つまり、後者はたんに、「本当のこの世界」を記述しているだけなのかもしれないのだ!
先ほども言ったように、量子力学の対象は、私たちの「日常」を、そもそも成立させている「媒体」のメカニズムであって、それらが、そもそも、今までの私たちの「常識」の範囲で説明できるとは限らない。
おそらく、多くの人が一番不思議に思っているのが「量子もつれ」だろう。
量子もつれを簡単に説明すると以下になる:

  • 非線形光学結晶(ビームスプリッター)に光子を通して、量子もつれ状態の二つの光子のペアを作る。この二つは観測すれば、必ず、角運動量がそれぞれ反対のスピンとなることが分かっている。この二つの光子を、それぞれ、東京とニューヨークにもっていって、一方のスピンの方向が「どっち」なのかを観測する。すると、量子力学コペンハーゲン解釈から、観測したその「瞬間」に、相手側のスピンが、どっちの方向なのかが分かる。ということは、一瞬にして情報が伝わったということを意味しているんだから、アインシュタイン相対性理論の「光より早いものはない」という法則に違反しているんじゃないか?

これは非常に不思議な現象ではあるが、だからといって「矛盾」とは限らない。つまり、「アインシュタイン相対性理論が主張した、光より早いものはない」が、例外がある、となったに過ぎないからだ。
もっと言えば、このことは、この世界全体の構造の話に関係してきている。相対性理論は完成度の高い理論だが、量子現象を完全に記述するものじゃない。量子現象には、その範囲での法則がある。それが、たんに私たちの「常識」と相性がよくない、と考えるべきだ。
大事なポイントはなにか。この、量子もつれという「非局所性」が

  • 矛盾じゃない

ということを確認することが、そして、これを成立させているものが、量子論に最初から含まれている「ランダム性」だ。この「ランダム性」があるから、これが矛盾なく説明できるのだ!
世界の説明が矛盾していないということ自体が、その説明の正しさを証明するわけではないが、少なくとも、一つの候補として残ることを意味する。
ここで、もう一度、立ち止まって考えてみよう。量子力学にとって、なにが大事なのか? 一つは、

  • なにを大事にするのか?

だろう。私たちが、この世界を説明するときに、どういった原則を大事にするのか? その代わりに、どんな「常識」を捨てるのか? 一つだけ分かっていることは、私たちの日常の常識による「アナロジー」では、この量子力学の世界を「そのまま」説明できない。だったら、何を捨てるのか、が問われているわけである。
まず、大事にすべき、一つの候補として昔から言われるのが、

だろう。量子力学における、観測する「前」の、物理的な「実在」を記述できるのか? この問題に対して、アインシュタインは、「隠れた変数」という考えで、その実在性を説明した。これに対して、今回のノーベル物理学賞は、この「隠れた変数」が存在する場合に、成立していなければならないものとして示されていた「ベルの不等式」を実験によって否定的に証明した、として与えられている。
このことは、私たちが量子力学に「実在論」を適用しようとするとき、最大のネックになっていると思うかもしれない。ここから、「平行宇宙論=パラレル・ワールド」こそが、答えだ、と文系のハードSF系の人たちは考えてきた。
しかし、この方向は、以前も書いたように、そもそも「実在論」の立場からは受け入れられない過程のように思われる。つまり、平行世界を「実在論」と両立させることが、かなり無理があるわけだ。
だとするなら、別の方向から、この「実在論」を成立させる理論はないのか、という疑問が浮かぶことは分かるだろう。
そして、掲題の著者が主張する案が、「全体論的なアンサンブル解釈」だ。
この解釈は、昔からある、量子力学統計学的解釈のマイナーバージョンと言っていい。そして、おそらく、最大のポイントは、この解釈によって、

の謎が解決される、ということだ。つまり、ベルの不等式は成立していない! この不等式には、全体論的なアンサンブル解釈の視点から見て、絶対に受け入れられない仮定がつけられている。
ただし、その場合、ある「付加条件」がある。つまり、以下の事実を受け入れるならば、というわけだ。

ただし、このような解釈を採用するには大きな問題が一つある。それは「現在の確率分布が未来の測定情況に依存する」ことを受け入れなければならない点である。

おそらく、ここに「全体論的なアンサンブル解釈」がマイナーな理由があるのだろう。
全体論的なアンサンブル解釈」とは、「フィッシャー情報量最小の法則」を仮定することである。しかも、この仮定から、シュレーディンガー方程式が導かれることが分かっている。よって、量子力学のさまざまな現象は、その場所「全体」によって、つまり、

によって決定されることになる。なぜ二重スリット実験で、光が粒になったり波になったりするのかは、その場所「全体」が、そもそも違っているんだから、違った結果になる、ということにすぎなくなる。スリットが二つ開いているという、空間の違いがある限り、そこを通らなかったから、なんの影響も与えなかったじゃない。空観が違っているんだから、違った結果になる。実際に、二つのスリットが開いているんだから、それが開いているだけで

  • 違う動きをさせる

のだ!
なるほど、この程度であれば、まだ、私たちの常識に近いところで考えられる。しかし、この「全体論的なアンサンブル解釈」は一つ、私たちの常識を否定している。それが、

  • 未来の測定情況が現在の確率分布に依存する

と言っていることだ。つまり、未来から現在に、なんらかの依存関係がある、と言ってしまっていることだ!
つまり、どういった関係なのかということが、「フィッシャー情報量最小の法則」だ、と。つまり、未来の観測でそうなるように、現在の私たちが、そうなっている、と言っているわけだ。
この「アナロジー」は、ニュートン力学でのそれのアナロジーだと言えなくもない。多くの人が知っているように、物理学の多くの法則の中で、時間の「方向」をもっているのは、エントロピー第2法則しかない。それ以外のあらゆる法則は、時間に対して対称になっている。このことは、私たちに時間の「実在」を疑わせる。
時間はないのかもしれない。もっと言えば、私たちが時間だと思っているのは、私たちの妄想なのかもしれない。つまり、

  • 錯覚

である。エントロピー増大の法則は、よくよく考えてみると難しい話だ。私たちがエントロピーが増大していると思うこと、つまり、

  • どんどんと乱雑になっている

と思うことは、本当なのか? 考えてみよう。このことは、「どのように確率空間を作るのか」と同値だ。本当にランダムな確率空間とはなんなのか? 私たちが乱雑な状態を「方向」として感じるのは、

  • すべての場合分け

に対して、そういったケースを「ほとんど全て」のケースとして、まるで一つのケースであるかのように受け取ってしまっているからに過ぎないのではないか? 本当の確率空間は、そういった「ほとんど同じ」ように思われるものたちの、「無限小の差異」によって、一つ一つに分けられた事象によって成り立っているのであって、そこには、「時間の方向」のようなものはないのかもしれない。
カントの晩年の草稿の、オプス・オストムムには、スピノザへの多くの言及があることが分かっている。その概ねの主張は、スピノザが自由意志を認めなかったことへの批判なわけだが、カントはいったんそう結論した後も、その上で、スピノザの自由意志の否定を多角的に検討している。そして、そう考察した上で、スピノザのこの自由意志の否定の主張が、どういった条件でなら、成立しうるのかを考察している。
大事なポイントはなにか? 掲題の著者も言っているが、「全体論的なアンサンブル解釈」が主張する「未来から現在への影響」を

  • 因果=自由意志

のことだと考えてはいけない、といいうことだ。この二つは厳密に区別しなければならない、と。

決定論を採用するとなぜ問題をうまく解決するかと言えば、それは、もし我々に選択の自由がないのであれば、相関を持つ2粒子系が発射された時点で確率分布が決まっていて、その決まっていた確率分布い都合が良いように我々が実験装置の設定を選択していると解釈できるからである。

まあ、そうだよなw これで「量子もつれ」の謎が解決するって、驚くべき主張だよな。
ただ、こういった「超決定論」と、

  • 因果=逆向きの因果
  • 自由意志=逆向きの自由意志

の「矛盾」とを、ごちゃごちゃにして考えてはならない。「全体論的なアンサンブル解釈」は、自由意志を明確に否定している。ということは、

  • 同じように

「逆向きの自由意志」、つまり、「未来人が<意志>して、過去を書き換える」という考えも否定している。つまり、「全体論的なアンサンブル解釈」は、私たちの

  • 常識

が考えるような、ものすごく大きな部分を否定した上でも「未来から過去への影響」を考えているわけで、そう考えるなら、あながち、そこまでは不思議ではない、とカントだって考えたかもしれないのだ...。
www.jstage.jst.go.jp

追記:
少し考えてみよう。上記の「全体論的なアンサンブル解釈」は、ベルの不等式を否定している。つまり、そうであるなら、より「実在論」的に量子系を考えられる可能性を示している。しかも、ここ近年に現れてきた、さまざまな量子力学の「不思議」な現象:

といった、さまざまなものを、これはうまく説明しているように思われる。特に、「量子消しゴム」、

m.youtube.com

こういった「過去改変」系のパラドックスをよく説明しているように思えるんだけれど、どうなんだろうね。時間のあるときにでも、もう少し考えてみたい...。