「悪」を認めない功利主義者

功利主義者は、カントを仮想敵とする。カントは「義務」ということを言った。というか、倫理的に正しいことは、

  • 集まった人間が(自分たちに都合がいいように)勝手に決めるものじゃない

と考えた、と言ってもいい。カントの考える倫理学は、厳格なもので、「正しい(必然的に、どこからか命令してくる)」から従うのであって、一部の人間が勝手に決めるものじゃない、という認識がある。一部の人間が集まって、

  • (自分たちが有利になるように)こういうルールを決めて、他の奴らに従わせよう

として決まるものじゃなくて、その「正しさ」は、もっと、ある人間が「都合がいいように」決められない形で、私たちに「強制」してくるような、そういった性質のものだ、と考えた。
しかし、こうやって考えると、カントの発想はむしろ自然なように思われる。倫理的に人々が従うべきと思われている命題は、ある人間が自分に都合がいいように勝手に決められるものだとは考えていないだろう。よって、そうやって「選ばれる」倫理的な命題は、なんらかの意味で、それを選んだ人にとっても「苦しい」し、「従いたくない」ような、けっこう大変に面倒なものである場合はほとんどだと思われている。
しかし、こういうカントのような考えは、古典的には常識的だったとしても、一つのパラドックスがある。そもそも人間が「選ぶ」倫理的な命題が、どうやったら、

  • ある人間にとって都合のいいものじゃなく

できるのかが、よく分からないわけだ。よって、カントの倫理学はどこか、超越的な側面を含んでいる。
これに対して、功利主義はそういった「天井の議論」をあきらめた人たちの倫理学だと言えるだろう。もう、そういった議論をやめたのだ! どうせ、人間は強欲な存在だし、自分に都合のいい倫理的な命題を選んでしまう。だったら、それを認めた上で、最低限、

  • フェア

と私たちが思えるような「決め方」をしようじゃないか、と。
そういった考えから、そもそも功利主義は、なにが正しいのか、という考えを捨てる。そうじゃなくて、

  • みんなが「倫理的」だと思うものを「倫理的」だとしよう

と考える。つまり、最大多数の最大幸福である。
ここにおいては、実際に、どうすればいいのかを決定しようとするのではなくて、

  • みんな、いろいろな意見を言っていいよ。あいつが駄目だと思うならそう言おう。そうやって、いろいろな意見を集めて、それらから「計算」すればいいじゃん

と言っているわけである。みんなが、いろいろなことを言う。そして、それらは「それ相応」に考慮する。どの意見も無視しない。つまり、それなりの「ウエイト」をつける。その上で、評価をする。そうして、その計算が導き出した「結果」に従おう、と。
まあ、どっかで聞いたことがある考えだよね。そう。ルソーの、社会契約論における「一般意志」の計算方法だよね。
どうすればいいかは「計算」すればいいじゃん。
しかし、当たり前だけど、その「計算」なるものが、なぜ「従わなければならない」のかは、功利主義は教えない。というか、功利主義は自らを倫理学と称していながら、まったく「道徳」や「倫理」を認めない考えなのだ。ここで「従わなければならない」のかどうか、と言ったが、そもそも、功利主義からは、こういった問いは生まれない。なぜなら、上記から分かるように、そもそも功利主義は、

  • なにが「道徳」なのか、なにが「倫理」なのか

を決めないために行う、それらの代替行為でしかないからだ。それらを決めない。決めないけど、私たちはなにかを決めて行動しなければならないから、じゃあ、どうしよう、ということしか言っていない。
さっきも言ったように、功利主義にとって仮想敵はカントだ。カントのそういった「道徳」とか「倫理」という、古典的な考えや概念に反発するところから始まっているから、その結果は当然だとも言える。
まず、功利主義者は「悪」を認めない。なぜなら、ある人が、ある犯罪行為を行う

  • 原因

を考える限り、その人の「罪」は存在しないことになるからだw ある人がある犯罪を犯したことには「原因」がある。つまり、子どもの頃の親からの虐待など、さまざまな理由によって、「しょうがなく」やった。だったら、それは「しょうがなかった」ことになる。つまり、その行為は「その人のせいじゃない」となる。その人は、そういった行為を行わざるをえなかった「かわいそう」な人ということになり、

  • 全ての犯罪者は無罪

ということになるw なにを言っているんだと思うかもしれない。しかし、功利主義者は本気なのだ。彼らはカントを仮想敵としたとき、カントのこういった犯罪者を罰する行為に反対した。そうじゃなくて、

  • 犯罪者に必要なのは、実社会からの「隔離」と、療養のトレーニン

だと言った。まあ、功利主義者がそう言わなくても、多くの犯罪者は障害者だったわけだし、実際に牢屋に捕まっている容疑者の日々のトレーニングは、さまざまな療養的なプログラムなわけだが。
功利主義の特徴は、なにかを決めるときに、その議論への参加は「原則は全員」でなければならないし、その議論で発言された全ての主張を尊重しなければならない。そして、その上で「合理的」になにかを決めるから、「比較的」に誰が考えても穏当なところに収まっているはずだ、という考えだと言っていい。だから、個々の自称「功利主義」者による決定が、妥当かどうかは誰も決められないのだw 功利主義はこういった形で、人間くさい、うさんくさい側面がある。しかも、おそらくは最大の欠点は、

  • 功利主義的な意志決定の場で「発言しなかった」人たちの意見は全て無視される

という構造になっていることだろう。つまり、この決定はどこか「アリバイ作り」のような印象がある。なにかを決めるときに、その

  • メンバーシップ

こそが、最初から疑わしいわけだw 誰がこの議論に参加できるのか? カントの「道徳」「倫理」の超越的な側面は、ある意味で、この<参加の普遍性>を担保するためにあるように思われるわけで、むしろこれは、古典的な道徳が必然的に採用してきた、生きる智恵なんじゃないかとも思えてくるわけで、実際に、現代社会のさまざまな場面で、功利主義的な意志決定がさまざまなトラブルを起こしている事実を見てくると、どうなのかなと思わなくもないわけだ...。