ブルーハーツの青空

この話は以前にも書いた記憶があるけど、THE BLUE HEARTSという、昔の日本のロックバンドの曲に「青空」というのがある。
この曲は、ユーチューブで見ているとよく、黒人の方がとりあげている。というのは、いろいろと、そういった方々に刺さる詩があるから、と言っていいんだと思う。
それは、歌詞を見てもらえば明らかだと思うけれど、例えば、詩の前半で、ブラウン管でインディアンが騎兵隊に殺されるシーンの話が語られ、中盤で「生まれた所」「皮膚や目の色」によって、人を区別することの理不尽さが歌われているわけで、これが、

  • Black Lives Matter

を経た、黒人の方々に刺さらないはずがないわけだ。特に、BLMは、ミュージシャンのような文化人にとってもムーブメントとなっていたわけで、改めて、この曲が興味深く思われることは分かるような気がする。
ただ、この話には、もう一つ、言っておかなければならないことがある。
それは、この曲が発表されて、いろいろなところで披露されていったときに、ブルーハーツのボーカルが行ったパフォーマンスの話だ。

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まあ、著作権の話もあるから、この動画でもそこまで分かりやすく見えるように演奏を見せていないけど、それでも見れば分かるだろう。当時、彼はこういったパフォーマンスをしていた。じゃあ、なぜそういったパフォーマンスをしていたのかだけど、そこについては、いろいろな考えがあったんだと思う。それは、彼らの歌詞を見ても分からなくはない。
例えば、ブルーハーツのヒットした曲に「情熱の薔薇」というのがある。ここでは、薔薇の美しさと「どぶ鼠」が対比されている。一見すると、後者は前者に比べて「美醜の面」において、劣る存在と扱われる。しかし、それは変なんじゃないか、と言うわけである。なぜ、「どぶ鼠」の美しさに気付かないんだ、と。つまり、「どぶ鼠」の心の美しさを理解しない人々の

  • 醜さ

を揶揄しているわけだ。
黒人のミュージシャンの方々にとって、自分たちのルーツでもある、Black Lives Matterは重要だろう。しかし、ブルーハーツの曲は、そこにとどまらない範囲の批評をもっている。
早い話、上記の動画でのブルーハーツのボーカルのパフォーマンスは、身体障害者の真似なわけだ。そこには、おそらく、水俣病患者すら意識しているだろう。思い出してみると、日本の義務教育制度において、そういった人たちは、別クラスに集められて、別の教育を受けてた。なぜ彼らが別扱いされるのかは、そこまで自明ではない。同じなんじゃないか? アメリカの過去の歴史において、白人たちが、黒人たちを、「隔離」して、別扱いしてきたことと。
ブルーハーツの曲では、初期の作品の幾つかで、自分たち「不良」が、優等生で、進学校に進む連中と別扱いをされて、社会から

  • 馬鹿にされる

ことを怒りをもって告発している曲がある。おそらく、こういった延長に、彼らにとって多くの「差別」などの問題があるわけだ。みんな繋がっている。なんらかの、社会的な「差別」を正当化する、エリートたちのドス黒い悪の臭いを、ずっと告発し続けた延長に、上記の「青空」もあったはずなのだ。
そして、こういった延長で、この前に紹介させてもらった、柄谷行人の『力と交換様式』における

  • 交換様式D

を考えることもできるだろう。社会的な問題を考えると言っているエリートたちは、往々にして、自らのエリートゆえの「特権」を享受して、その利益を

  • 当然

のように考え、それをもたない人たちへの差別を正当化している。しかし、それは「自明」なのだろうか? 彼らの醜いその姿は、どんなに立派な服を着ていたって隠せない。そのことと対照的に、「情熱の薔薇」における「ドブ鼠」の

  • 美しさ

が、まさに、交換様式Dとして、私たちに現れる...。