以前、もうけっこう昔になったが、ニコニコ生放送の番組で、東浩紀先生が、世界の「フラット」化について言及していたことについて、このブログで批判した。
つまり、彼の主張としては、世界は「フラット化」する、と。世界のどこでも同じものが売られて、同じコンテンツを消費して、あらゆる
- 地域差
はなくなるんじゃないか、という意見だった。
もちろん、ここで「フラット」という言葉が使われたのには、オリジナルのネタ元としては、
- トーマス・フリードマン『フラット化する世界』
がある(こっちの本は、けっこう前に買った。つまんなくて、流し読みしただけだが)。そして、おそらく、この本をネタ元として、
- 佐々木俊尚『フラット革命』
という本を、(今では、幸福実現党と統一教会の御用ジャーナリストであることが暴露された)佐々木俊尚が書いたんだろうが、後者は、佐々木が書いたというだけで、まったく読む気にならずw、今だに読んでいない。
例えば、以下の動画で、最初の話題として言語学の先生が、「軍隊」の話をしている。
簡単にまとめると、1940年代のアメリカ空軍で飛行機事故が多発した。コックピットに問題がありそう、ということが分かってきた。コックピットの大きさに、パイロットの体が(大きくなって)合わなくなってきたんじゃないか。
そこで、みんなの体のパーツのサイズを測ってみよう、となった。そこで、4000人以上に10ヶ所のパーツを測った。腕、足、胴回りなど。
4000人の平均に収まる一が何人いたか?
という質問。答えは、
- 0人
だ、と。ようするに、平均なんだから、「それぞれ」のパーツでは、ほとんどの人が、平均の近くに入るんだけど(それが定義ですから)、その「平均の近くに入る」が
- (10ヶ所の)すべて
に対して当て嵌まる人はいなかった、と言っているわけである。
普通考えると、例えば、身長の高い人を考えてみよう。そういう人は、「おそらく」体の全てのパーツが大きいんじゃないか、と私たちは考えがちだ。
しかし、そうじゃないと言っているわけだ。身長が高い人でも、足が短かったり、身長が低くても、腕が長かったり、といったことが「普通」にある。
こういった視点は、何を示唆しているのだろう? 例えば、「哲学者」という人たちがいる。彼らが行ってきたのは、
- (ある種の)抽象操作
だ。なんらかの、個別の具体例から、「一般論」を始める。すると、一般人は、その哲学者が言うことの
- 主語が大きすぎる
と批判するのだが。
例えば、有名なハイデッガーの「ダス・マン」というのがある。現代社会を批判して使われた概念だが、まさに「平均人」と言っていい(おそらく、東浩紀先生はハイデッガーの影響から、上記のフラット化も考えているのだろう)。都会人は、あらゆる人がこういった「没個性」の存在になっていくんだ、として、それを批判したわけだ。
しかし、上記の平均の話が示唆しているように、そんなに簡単じゃないわけだ。
例えば、スーパーに並んでいる果物を考えてみよう。一見すると、これらはまさに「平均」そのものに見える。だって、みーんな大きさも形も「ほとんど同じ」だから。
しかし、言うまでもないけど、果樹園で採取された果物はそうじゃない。つまり、
- 検品
によって、不揃いなものは除去されている。
例えば、全国に店舗を展開している、ファミマやローソンのような、コンビニを考えてみよう。これこそ、「フラット化する世界」の象徴のように扱われてきたわけだが、確かに、それぞれの店舗に置かれる商品は、東京も北海道から沖縄までの田舎も似ている。
でも、考えてみてほしい。
じゃあ、どれがよく売れるだろう? そりゃあ、
- その地域に合わせて、必需品だったり、便利だったりするもの
だよね。沖縄のような年中あったかい地域は、手袋のようなのは売れないでしょう。逆に、北海道だったら、ほっかいろみたいなのが、よく売れるのかもしれない。
つまり、一見似ているけど、実際は置かれる「量」が、そもそもコントロールされて、違うわけだ。
こうやって考えてくると、いかに、「フラット化する世界」みたいな話が、うさんくさく感じられてくる。まあ、実際、あんだけ中毒のようにツイッターをやっていた人が、ある日から、まったくやらなくなったりするわけだから、SNSを
- いずれは、「みんな」がやるようになるだろう(=フラット化するだろう)
みたいな話が、いかに、うさんくさいかってことだよね...。