社会学者の宮台真司先生を襲った犯人が、すでに去年の年末には自殺していたことが報道された。しかし宮台先生はその事実が判明する以前から、この事件について何度も言及している。
そこで宮台先生が言及していることは、あまりにも奇妙な内容だ。つまり、
- 確かに、私が襲われた。しかし、犯人にとって「だれでもよかった」んじゃないか?
と。つまり、宮台先生は本気で、犯人は
- 無差別殺人
だったはずだ、と言いたいんだ! 人を殺せれば、「だれでもよかった」と。
なんで、こんなことを言っているんだろう?
すこし、ここで振り返ってみよう。宮台が、マスコミに登場した最初の事件は、オウムサリン事件と、酒鬼薔薇事件だった。ここで、後者を宮台は、ある種の「革命」だったと言っている。つまり、犯人の少年を
- 脱社会的存在
と言った。ただ、この表現に対しては多くの批判があった。それは、宮台がこの表現を使ったとき、彼は
- お前の隣に「無差別テロ予備軍」がいる
と言って、私たちに
- 戦争に備えろ
と言ったわけだ。つまり、日本社会には、大量の「敵」が隠れている、と言って、こういった「敵」を、なんとしても「排除」しなければならない、そうしなけば、私たちの「平和」は訪れない、として、社会に、「お前の隣の犯罪者予備軍=脱社会敵存在」の「排除=ナチ強制収容所への移送」が必要だ、と言ったのだ。
宮台がずっとやってきたのは、
- 引きこもり
が、「脱社会的存在」として「危険」だから、こういった「社会の敵」を、なんとかして、社会から排除しなければならない、という主張だった。宮台先生は何度も何度も、こういった
- コミュ障
- 陰キャ
- 「いじめ」られっ子
を、「社会的」な一人前の社会人としての人との「つきあい」ができない存在だとして、
- 危険
だとして、社会に警鐘を鳴らし続けてきた。宮台は何度も何度も、そういった「潜在的な犯罪予備軍」が、「ひきこもり」として、この社会の中で、隠れて生きていることが、
- この社会が「安心」「安全」
になるための、最大の懸念事項だとヒステリックに唱え続けた。
しかし、である。
実際には、この酒鬼薔薇事件以降、宮台はこの「脱社会的存在」という言葉を使わなくなった。というのは、これだけ宮台が警鐘を鳴らしたのにもかかわらず、こういった事件はほぼなかった。まず、数えるほどしか、こういった事件が起きなかったわけである。
では、逆にどういった事件が起きたか?
それが、安倍首相の殺人事件であり、宮台先生の襲撃事件だった。つまり、明らかに犯人は、
- 安倍への明確な殺意
- 宮台先生への明確な殺意
をもっていた。つまり、安倍への殺人であれば、ここには明確な統一教会への「憎しみ」があった。つまり、統一教会と「戦う」一直線の線上に、安倍への殺人が位置付けられている。ここには、例えば、忠臣蔵と同じような、明確な「戦う相手」 としての位置付けが明確となっている。
同じことが、宮台先生にも言える。誰がどう見たって、宮台が襲われたのは、宮台の「発言」への、明確な「戦う意志」があったのだろう、というのが見られる。しかし、他方において、犯人は「自殺」している。つまり、ある意味で、犯人は「宮台を殺して自分も死ぬ」「自殺する前に、宮台に天誅を下す」という態度が分かる。つまり、この犯行は「自殺」を前提に行っている。誰がどう考えたって、昼間の大学内で犯行を行えば、いっくらでも、監視カメラの映像が残っている。だとするなら、そもそも最初から、後で自殺する(切腹する)、という覚悟でやっているわけだ。
では、これだけ「明確」な宮台先生への「殺意」が見られるのに、なぜ宮台先生はこれが
- だれでもよかった
無差別殺人の「一種」だと「考えたい」のかだが、彼は奇妙なことを言っている。
つまり、宮台先生は「自覚」があるわけであるw 自分の言っていることが、彼らの「ネタ元」になっていることを。彼らが老人を殺せと言うことも、自分の主張を「正しく」従っていること、彼らが「低学歴の連中がエリートの邪魔をするな」と言うことも、自分の主張を「正しく」従っていることを。
宮台先生が近年言っていることは、ある種の「新自由主義政策」なわけだ。つまり、マッチョ主義だ。弱者は滅びろ。宮台先生にとって、ネトウヨは「ウヨ豚」であり、フェミニストは「クソフェミ」と呼ばれ、つまり、
- 罵倒=侮辱の対象
なのだ。宮台先生は年がら年中、日本中の知識人と対談して、知識人に「たくさん」友達がいて、毎日が充実しまくっている。典型的な
だw 彼から見れば、
- コミュ障
- 陰キャ
- 「いじめ」られっ子
は、友達もいず、一年中、誰とも話さない人間は「脱社会的存在」として「欠陥のある存在=自分のように、毎日、頭の良い友達との話し合いの仲間もいない=才能のない存在」として、
- 社会に「いらない」存在
として、「危険」だ、とヒステリックに叫び続けた。
しかし、である。
実際に起きていることは、たんに「宮台が天誅を下された」に過ぎず、「安倍が天誅を下された」に過ぎず、
- なぜか
一般の人に被害が及ばない。なんで安倍がこうなったのか。なぜ宮台がこうなったのか。なぜ安倍が死んで、宮台が死ななかったのかは、たんに犯人が一方は元自衛隊で人殺しのプロだったのに対して、他方は引きこもりの弱者だったの差でしかない。じゃあ、「なぜ」彼らはこの犯行に及んだのか、については、安倍については、ほぼ明確だ。対して、宮台はどうか? おそらく、はっきりしたことは分からないのだろう。ただ、一つだけ、はっきり言えることは、
- 宮台が「言った」何かが、犯人の実存の何かに「絶対に許せない」何かを残した
ということになるだろう。しかし、絶対に宮台は、その「事実」を受け入れない。そう考えれば、おそらく、こういった犯罪者は、これからも何度も何度も現れるだろうが、それは宮台が言うような
- 無差別犯
ではなく、「宮台しか狙わない」だろう。つまり「なぜか」宮台ばかりが、襲われる。しかし、宮台はそれが何度も何度も起きても、「絶対」に自分に何かの
- 欠陥
があって、そうなっているんじゃないのか、と考えない。そしてそれは、安倍もそうだったわけだ。安倍は、あれだけのことをやっておきながら、なぜか「自分個人が襲われことはない」と考えていた。だから、あんな危険な、辻立ちの選挙応援を行った。もちろん、安倍以外の政治家が辻立ちで応援したとして、これがまったく不思議でないことは自明だろう。なぜなら、ほとんどの多くの政治家が「良いこと」をやっていることを知っているからだ。ところが、安倍は別だ。安倍が「社会悪」であったことは、あれだけの安倍政権時代の無茶苦茶な政治手法で、この社会の根本を破壊した。そんな安倍が、なぜ、他の政治家のように辻立ちできると思えるのかw おそらく安倍は、
- 他の政治家より「劣っている」と思われたくない
といった、「見栄」があったのかもしれない。そういった「見栄」が、宮台先生にも、どこか感じるわけである...。
追記:
上記の文章の最低限のネタ元を挙げておこうと思うが、犯人が自殺したことが分かる前の宮台先生の発言が以下だ。
これに対して、同様のことを実は、犯人が自殺したことが分かった後も言っている。