ぼざろとリコリコ

去年のアニメは、リコリス・リコイルとぼっち・ざ・ろっくの二つが席巻していた。
しかし、岡田斗司夫のような、サイコパスを「自称w」するような、通ぶったアニメおたくが、水星の魔女の最終回を(私は見ていないがw)、

  • やっぱり、ガンダムは富野の意図を継承するもの

みたいな感じで、不気味なまでに礼賛しているのを見て、ほんと、絶対にこういった連中と関わりたくないな、と思ったわけだ。
ガンダムって、ただの「戦争の武器」でしかない。つまり、人殺しの道具。水星の魔女の最終回で、かなり残虐なシーンがあったみたいだけど、それを見て、岡田斗司夫のような連中たちが、人を残虐に殺せば殺すほど、

  • リアリティ

だとか言ってw、礼賛するわけだよね。岡田なんて、自分で自分のことを「サイコパス」とか言って、アニメは「狂気」を描けば描くほど、「新しい」みたいなことを言って、ほんと業界の害悪でしかねえな。
なんていうかな。こういった一つ前の世代の「SFおたく」たちの、そもそものサイコパスっぷりが、さまざまな害悪を業界に生んできたんじゃないか、という疑いだよね。
だから、富野作品の評価の軸も、おかしいわけ。富野が「狂った」ことをやればやるほど、お祭りみたいな感じで、やんややんやと盛り上がる。どれだけ残虐に、一人の人間を、ぼろ雑巾のように殺したか。その、不気味なまでの「非人間性」に、(まるで犯罪者のレイプ正当化のレトリックのように)吐き気をもよおさせる、この世界を根底から否定してやろうという情念が漂ってくるわけだw
まあ、おもしろいよね。こういった連中は、まず、リコリス・リコイルとぼっち・ざ・ろっくをとりあげない。ここって、一貫しているんだよね。
ガンダムシリーズが、人間をゴミ屑のように、ボロ雑巾のように殺す場面を、

  • 傑作

とか言って、まさに「サイコパス」よろしく、踊り狂っている連中は、見事なまでに、リコリス・リコイルとぼっち・ざ・ろっくを語らない。つまり彼らの

  • コミュニティ

の中で、これらが肯定的に語られることがない。つまり、もともとが「ネタ」を巡るコミュニケーションだから、「空気」を読んでいるのだろう。
いや。もっと違った視点で語ることができるのかもしれない。そもそも、こういった連中は、こういった「(サイコパス)おたくコミュニティ」の中に自生して、すでに居場所を見つけた、

なんだ、と。だから、それらが「欠落」した人たちの悩みを共有しない。一種の

  • 強者

の感性を語っているんだ、と。
ぼざろは分かりやすいわけで、中学3年間友達がいなくて、ずっと「孤独」だった女の子が高校に入って、けなげにも、なんとか友達を作りたくて、ギターを練習している。あのさ。ギターをやっている

  • 目的

が、「おたく」と違うわけ。おたくの「建前」は、そのコンテンツを「消費」する理由は、そのコンテンツそのものの

  • 快楽

だ、と主張する。つまり、その作品が「GOOD」である、ことに集約している。
対して、ぼざろの後藤は、友達作り「のため」にギターをやっているわけ。つまり、そこにはギターそのものの「快楽」が二次的な扱いになっている。つまり、「目的」の順序が全然違うわけだ。まず、

  • 今、友達がいない

ということが「悩み」なのであって、その「悩み」の解消「のため」に、あくまでも、ギターを練習しているにすぎなくて、逆に言えば、この「悩み」が解消されるなら、ギターなんて面倒くさいものをいつでも止めたって、なんとも思わない、ということだろう。
もちろん、上記の「おたく」の定義は「建前」だと言うこともできる。「おたく」は、そういったコンテンツを「消費」するわけだけど、その理由は「その内容を巡って、そういったコミュニティの中での話題にできる」から、が「本音」なんだろう、と。つまり、そもそもの最初から、

  • 社交

を目的にしているのだが、つまりはその「起源」が忘れ去られて、無意識に暴力的に「隠蔽」されていると考えることもできるわけだが、とにかくも、ここには、

  • おたく ... 「コミュニティ」に今、受け入れられていることを前提にしている「陽キャ」「コミュ強」「いじめっ子」という、自らの「友達がいる」今の状態を「前提」に行動する「社交的」「強者」
  • ぼざろ、リコリコ ... 「コミュニティ」に今、受け入れられていないことを前提にしている「陰キャ」「コミュ障」「いじめられっ子」という、自らの「友達がいない」今の状態に悩み葛藤している「孤独な」「弱者」

という関係が見えてくる。
ようするに、上記の「おたく」コミュニティが、こういった作品を無視するのは、やはりこういった作品が彼らのどこかしらの「琴線」にふれているから、と考えることができるのかもしれない。未成年の男の子が、あえて少女漫画を読まないのは、そこに書かれている「なにか」が、自らを苛だたせる、なんらかのメッセージをはらんでいる、というのと関係があるのだろう。
まあ、ぼざろは分かりやすかったが、リコリコはかなり複雑で難しい作品でも、他方ではあったわけで、そこを語ってみよう。
リコリコがあれだけもりあがったのは、間違いなく第3話での、たきなの「覚醒」がある。たきなも千束もDSのメンバーだが、この組織はそもそも、両親のいない孤児を国家が国民に隠して、社会と隔絶させて育ててきた、という「社会の闇」がある。
この世界では、DSのメンバーの子どもたちは育ててくれたDSに感謝の感情をもち、全員が恩返しがしたいと思っている、ということが前提となっている。たきなは、ある事件をきっかけにDSの中心メンバーから、左遷されて、外部で別行動をしている千束とペアを組むことを組織に命令される。しかし、当たり前だが、たきなはそれに不満だ。今すぐにでも、DSに戻してくれ、と要望している。
これに対して、第3話は、千束がたきなを説得する話だ。千束は「今」を大事にしな、とアドバイスする。DSには、いずれ戻るチャンスが来る。だから、「今」を考えるべきだし、それは、たいしたことじゃないんだ、と。そうじゃなく、今の、喫茶リコリコでの「仲間」は、たきなを受け入れる「もう一つの居場所」になるんじゃないか。
たきなもそうだが、DSの全員が親がいない「孤独」な少女だ。そのたきなが、「自分」の「本来性」を、彼女の「実存」を喫茶リコリコの「コミュニティ」の中で見出していくことには、(人生には多くの紆余曲折があるんだから)意味がある、と。千束はそんなふうに言いたいのだろう。
そしてこれ以降、たきなは最高に「おもしろい」奴になるし、千束との最高の「バディ」になる。
おおまかな作品の構成としては、こんな形だが、他方でもう一つの作品の「骨組」が、この千束とたきなの「和解」の「プロセス」が描かれながら、平行して判明していくことになる。
つまり、

  • DSのやっている行為の「うさんくささ」

である。つまり、DSは「人殺し」集団である。しかも、国営の組織だ。つまり彼らは「犯罪者」だが、「国の命令」で行っている犯罪だ。彼らは、

  • 正義

のために、人を殺している。

  • 私が「そいつ」を殺せば、日本国民の大量虐殺を防げた

という「蓋然性」に関係している。しかし言うまでもないが、ある人間の行為の「可能性」の確率論的な高さを理由に人殺しは正当化されない。近代の法体系は、あくまでも、「結果」に対して「罪」が対応する形になっている。その理由は、結局、人は「心変わり」するからだ。そう思ったけど、やらなかった、ということはたくさんある。逆に言えば、そんなことが正当化されるなら、「そう思っていない」のに、勝手に他人が「お前はそう思ったはずだ」と言って、どんな人間も牢屋にぶちこむことを正当化できてしまうから、社会の基盤が壊れてしまうからだ。
この作品が興味深いのは、中盤に登場する真島の行動原理だ。彼は、作品に登場するやいなや、

  • DSの女の子4人をそれぞれ、陰から集団で襲い、一瞬で殺してしまう

わけだ。ここで視聴者は「作者は、真島は<悪>だと言いたいんだな」と考える。ところが最終回。千束と会話をする真島は、自分は

  • 正義

をやっている、と語りだすことに、千束はあきれる場面がある。
多くの人はこれが、なんのことか、よく分からないわけである。
真島がDSの女の子を、陰から集団で襲い、一瞬で殺してしまう場面は、そもそも第一話の

  • DSの女の子が、陰から、ただ道を歩いているだけの人を一瞬で殺してしまう

場面に「対応」して描かれている。
ようするに作者が言いたいのは、

  • DSは「悪」の可能性

である。真島が自分を「正義」と言うのは、このDSの「悪」への

  • 抵抗運動

として解釈している、という関係になっている。DSの女の子が日本中で人殺しをやっているのは、言うまでもなく、組織の命令である。そして組織に言わせれば、それは、その

  • 犯罪者予備軍の「蓋然性」

によって、正当化されている。しかし、そもそもこのDSという組織は、そんなに簡単に正当化できるのかが怪しい。そもそも、DSが国家組織として、陰で、そういった孤児の女の子を「養って」いるという事実の

  • 国家犯罪

の恐しさが、作品を見ている人に分かりにくくなっているわけだ。
もしも、真島が「悪」なら、なぜDSを「悪」と呼んではいけないのか? この関係を強く示唆しているのが、千束という存在である。千束はDSからドロップアウトした状態で、組織とは別行動をしているが、もう一つ、千束には特徴がある。それが

  • 不殺

である。千束は絶対にゴム弾しか使わない。彼女は自分の手で人を殺さない。もちろん相手は普通に鉄砲で撃ってくるわけだが、彼女の超人的な能力によってその玉をよけてw、生き残る。
では、なぜ千束はこんなふうに「変わって」いるのか。というか、なぜそう「変わって」いる状態でい続けられるのか。
作品の中盤から後半にかけて分かってくることは、千束の命がもう長くない、ということだ。千束は「人工心臓」によって生きていた。しかもその心臓は特殊な特徴があり、この世に一つしかなく、代えられず、故障したら死ぬしかないと考えられていた。
これにショックを受けたのが、たきなだ。なぜ千束はあんなに「明るい」女の子だったのか。その理由は彼女の「短命」と関係していた。彼女はずっと、最初から、どこか「悟り」すました女の子だった。たきなに千束が、あんなに「前向き」なアドバイスができたのも、彼女が強いからじゃない。逆で、彼女が弱いから、だから、逆説的に、たきなのために語ることができた。
これを知った、たきなは少しずつ大人になっていく。自分で考え、今この場面を自分で切り開こうと行動していく。
こういった、たきなの「成長」を一方で描きながら、作品の後半は完全に

  • 千束

の物語として描かれる。結局、千束が「問題」だった。この作品の作品構造として、この作品を

  • 外部

から見ているのは、唯一、千束だけだ。彼女は「早死」を悟った存在として、この作品に最初から現れて、自分の回りで起こる、さまざまな事象を客観的に見ている。
そうしたとき、彼女にはそれらがどう見えているのか。それが描かれたのが、最終話の第13話だ。ここで、千束は

  • 真島が「語る」(自分の)正義
  • DSが「語る」(自分の)正義

の二つに対して、なんらかの優劣のような順序をつけようとしない。そういう意味で、千束は一貫してDSに対して、デタッチメントであり、その「正義」を共有しようとしない。しかし、他方において、真島の「語る」正義にも興味を示さない。
彼女に見えている世界は、

  • いろいろな奴が「自分の」正義を語っている世界

であって、これに対して、なんらかの介入をやりたいという動機はない。彼女が言っているのは

  • いろいろな奴が「自分の」正義を語っている世界〈そのもの〉

を受け入れよう、という、ささやかな行動だ。その上で、ささやかな自分の「幸せ」が、「早死」がすでに昔から決まっている彼女が「あったらいいな」と語る、それだけの作品だ...。