アニメ「リコリコ」の「アラン機関」の問題

アニメ「リコリス・リコイル」は見返すと、よくできていることに気付くんだけど、例えば、第1話で、楠木指令が上層部から、たきなに全責任をなすりつけろ、と「指令」を受けている場面が描かれる。つまり、彼女はあくまでも

  • 中間管理職

であり、その限界の中で行動しているわけだけれど、そうでありながら、彼女たちなりの「抵抗」を、おそらくしているのだろう、というのが、最終話でリリベルにリコリスが抹殺されそうになったときの態度で分かるようになっている。
もう一つはっきりと分かることが、「吉松シンジ」の問題だ。つまり、

  • アラン機関

の問題だ。よく見ると、そもそものこの「事件」の出発点は、吉松が「仕掛けて」いることが、作品のかなり早い段階で描かれている。つまり、なぜ最終回で、ミカが吉松を殺したのかは、単純に彼の「悪」の問題というだけでなく、そもそものこの事件の

  • 全ての「原因」

に、吉松がなっていることが分かっていたから、吉松を処分しない限り、この事件が終わらない、といいう構造になっていたから、あえて、ミカが自ら、手を下した、という構造になっている。
ようするに、この作品は

  • すべて

が、吉松によって仕掛けられて、吉松によって、作戦を練られて進んだ事件だった、ということが分かる。
しかし、である。
たとえそれが分かったとしても、この吉松であり、吉松が所属する「アラン機関」という組織、この両方が結局のところ、よく分からない。分かりにくい構造になっていて、この作品を複雑にさせている。
ここが分からないのは、たんに「複雑」というより、吉松であり、アラン機関が言っている

  • 才能

というものを、私たちが、どう考えたらいいのか、という、少し「哲学」に近い問題が十分に解明されることなく、作品としては、それが、まるで「自明」であるかのように話が進むから「やっかい」なわけだw
さて。どう考えればいいのだろう?
まず、「アラン機関」は、秘密機関ではない。その意味は、マスコミ上で、何度も何度も、アラン機関に支援されて、世界のトップランカーとして活躍しているスポーツ選手の話が、このアニメ内で紹介されているからだ。
しかし、他方において、アラン機関は別に、スポーツ選手にだけ、支援をしているわけではない。その代表として、今回、登場したのが、千束であり、真島だった。千束や真島は、ある「才能」をもっている。だから、アラン機関が「支援」をする、という関係になっている。しかし、この話がややこしいのは、千束や真島の能力は、

  • 人殺し

に関係するものと解釈されていて、彼らが能力を発揮することと、彼らが

  • 人殺しをする

こととが「同値」に扱われている、という関係になっている。吉松が「こだわる」のは、千束が、ある、「人殺し」に有利な「能力」をもっていることではなく、その能力を

  • 行使する

ことだ。ここに、吉松の「狂気」がある。

  • 神から恵まれた「ギフト」をもっている人は、それをもっていることに意味があるのではなく、それを「行使」することに意味があり、価値がある

という関係になっている。

  • なぜ、その人は、神から、その能力を「恵まれ」たのか? それは、神が、その人に、その能力を「使え」と命令したからだ

という関係になっている。神が、ある人に、ある能力を与えた。ならば、その能力を十全に発揮して、その能力が「存在する」ことを、人々に「示さ」なければならない、と。
私たちがこの作品を見て、まず気付くのは、この吉松の「狂気」である。他方で、この問題は、この作品では、視聴者からは、これが吉松の問題なのか、アラン機関の問題なのかが、区別がつかない形で描かれている。
吉松のこの「おかしさ」は、この作品における、千束やミカからは、あまりアラン機関の問題という形で捉えられている場面は少ない。あくまでもこれを、吉松個人に対して、彼らの疑問はぶつけられていて、彼らは、吉松に気付いて、改心してほしいという思いで説得する。
しかし、視聴者の側から考えると、この吉松の「狂いっぷり」は、典型的な

  • カルト宗教の信者

の反応に見える。つまり、吉松は、「アラン機関」という「宗教団体」に

  • 洗脳

されて、このような行動をしているのだろう、と受け取られるわけだ。
まず吉松を、千束の側から考えてみよう。千束は幼い頃、吉松がアラン機関を使って、人工心臓の手術を受けることで延命した。千束は今にも死にそうだった。結果として、生き残ったのは、アラン機関の「支援」によってだった。
千束は、吉松によって生かされた。よって、千束は命の恩人として、吉松を考えるようになる。しかし、吉松が千束に延命手術を行ったのは、千束の

  • (アラン機関が評価する)「人殺しの」才能

に関係して、だった。つまり、千束を生き残らせたのは、彼女に「人殺し」をやってもらうため、自らがもっている人殺しの能力を「発揮」してもらうため、だった。ところが、千束は、いろいろと行き違いがあったため、不殺の誓いを立ててしまう。
これに対して、吉松は、ミカを責める。吉松がミカに、千束を預けたのは、そういった方向にミカに千束を育ててもらいたかったからだった。しかし、ミカは、我が子同然に育てた千束が、自ら選んだ不殺の生き方を尊重せざるをえなかった。ミカと吉松は、吉松がミカの下を離れるまでは、両思いの恋愛関係だったことが示唆されている(最近はやりの言葉で、LGBTと言ってもいい)。つまり、変わったのは

  • ミカ

なのだ。ミカは千束を一人で育てている中で、とても千束を吉松が考えるような存在に育てることができないと考えるようになっていった。まあ、それが親心の自然な発露だったわけだろう。
しかし、吉松はそれが理解できない。だから、吉松はミカを責めるわけだが、こういった吉松の、かたくなな態度に、視聴者はどうしても、アラン機関という「カルト宗教」の

の臭いをかがざるをえない。
というのは、あまりにも「狂気」だからだ。それは、千束が吉松に言ってすらいる。千束が吉松に感謝しているのは、吉松が千束を救ったからだ。ところが、吉松は、千束に

  • 人を殺す「ため」

に、千束を生き残らさせた、と言う。つまり、「目的」が「人を殺す」ことなら、なぜ千束が「自死」を選ばないだろう。つまり、もしもそれが「目的」で自分が生き残らされたということを知っていたなら、彼女は最初から、生き残ろうとしなかった、と言っているわけである。
吉松が「狂って」いるのは、吉松が千束の、その特異な能力を「神のギフト」だと考えているからだ。神が「わざわざ」、千束のために与えた「プレゼント」なら、

  • それを十全に行使しないことは、神の(そのようにあらせようとした)「意図」に反して生きようとすること

と同値となり、「反神論者」ということになり、千束は魔女狩りの対象となってしまう。よって、吉松は、なんとしても千束に人を殺させなければならない、ということになる。千束は、人を殺すことによって、始めて「神の被造物」として、

  • 完成

する。そうであるなら、その第一の供物となるのが、吉松自身であるべきだ、と考えるのは自然だろう。というのは、なぜなら、それが「吉松が望んでいたこと」だからだ。吉松が、「千束が人を殺してほしい」から、吉松は、千束の心臓手術をして、生き延びさせた。だとするなら、千束が「吉松の願いのため」に、吉松を殺すことは、願いに願いで返すという意味で、正当な返礼応答だと考えるわけだ。
しかし、当たり前だが、千束にこのレトリックは通じない。それは、千束が吉松の「神への信仰」を共有していない、ことにその原因がある。
吉松の「信仰」は、最も自然な意味で「狂気」だと言えるだろう。しかし、である。私たちがそう思うことは、どこまで、私たち自身を冷静に見れているかを保証しない。
例えば、日本社会の義務教育であり、高校・大学の偏差値教育を思い出してもらえばいい。ここで、特権的な地位を与えられているのが、

  • 偏差値という「才能」計測装置

だw これによって、子どもたちは、進学する学校を「選別」されている。果して、こんな「狂った」仕組みを野放しにしておいて、どうして、吉松を馬鹿にできるだろう。見てみればいい。この「才能」を狂ったように

  • 信仰

している、高校・大学の「偏差値教信者」たちの行動の、なんと、吉松と似ていることだろう。まったく、吉松の「狂気」と同じではないかw
少し考えてみてほしい。今でも、大学とかで「偏差値が幾つだったとか自慢している奴」とかいるでしょw あと、主席で卒業したとか、自慢してる奴。あのさ。こういった「学歴自慢」連中と、吉松。なにが違うの? おんなじじゃん! 偏差値が一点高かったからって、まるで

  • 神が決めた順位

みたいに、自分が大学に入れたのは当たり前で、落ちた奴らに人権なんていらねえ(大学に入れねえ)なんて当たり前、なんて思っている奴ら。そっくりじゃねえか。吉松が「千束は人を殺せ」って叫んでいる姿とorz
まっ。最後で、ミカが吉松に言うわけね。年寄は若者の邪魔をすべきじゃない、って言うわけだけど、ほんと、このことを吉松は最後まで理解しなかった。最後の最後まで、千束に自分を殺させることにこだわって、自らが「千束に殺される」ことによって、

  • 千束を完成させる

ことによって、千束に新しい人工心臓への交換を行わせようとしたわけだけど、ほんと、最後の最後まで、ひったすら「醜い」のが、吉松だよね。これに、ミカは「まったく」コミットメントしない。人工心臓だけもらって、千束の手術をやっちゃって、自分が吉松を殺して、千束に余計な心配をかけさせない。千束の最後の言葉がよく表しているわけ。吉松にしても、真島にしても、あの「気持ち悪い」

  • 美学

なんだよねw ほんと、しょうもねえな、っていうのが感想なんだよね。馬鹿じゃねえの、って。こんな、どうでもいい「美学」に酔いしれやがって、って。こんなことやって、どんだけ、社会に迷惑かけてんだ。信仰だか、正義だかしらねえけど、なんなんだこの

  • どうでもいい

こと、って。こうやって並べると、吉松と真島が「男性社会という、学歴社会の<気持ち悪い>美学」の象徴として並べられているのだとしたら、千束の立場からは、こういった「妄想」を生きる学歴社会強者たちの「狂気」を、「ほんっと、どうしようもねえ、くっだらねえ連中だな」って、ただただ、あきれられて、最終回は終わってんだよね...。