私もいい年齢になって、まあ、年寄だよな。アラフィフの、ただの、おっさんになって、というかね。なんていうか、こういった年齢になってくると、自分でいろいろ考えるようになるだけじゃなくて、実際に回りの人や、いろいろ親しくさせてもらった人、その人に関係する人だったりが亡くなったりして、つまりは、そういう光景をよく見るようになる年齢になってきた。
そうすると、いろいろ考えるわけで、生きることは、限られた寿命を生きることなんであって、そうやって静かに眺めるなら、自分が日々、あさましくも、一円でも多く稼ごうと汗水たらしていることも、いや、そうはいっても、天国に金貨を積めるわけじゃないからな、と。
じゃあ、なんで生きているのかなんて、面と向かって言われても困るわけだけど、少なくとも、もう少し私たちは、そういった視点で日々を考えることが必要なんじゃないのか、とは思うわけだ。
亡くなった人とは、もう会えない。
じゃあ、その亡くなった人は、なにを考えていたのだろう? でも、そう思ってももう、相手に問いかけて、答えてくれることはないのだ。しかし、もうない、と言って「あきらめ」られるだろうか? もういないからといって、そう問うことを止められない。どうしても、生前の面影が目に浮び、あの日、あの時に、その人の姿が、もう一度、何度も何度も思い出され、その時語っていたことが、今、思い返してみれば、鋭いことを言っていたんだな。自分がずっとそれに気付かず、今の今まで、盲目に生きてきたんだな、と後悔にさらされる。
本当に「大事」なことが、そこにはあったんじゃないか? ただ、自分はあの時、幼く、回りが見えていなくて、まるで、ずっと幸せが続くかのように、なんの心配も懸念もせずに、人を傷つけることを語っていたんじゃないか。
しかし、である。
こういったことについて、多くの芸術作品が描いてきたわけだ。ただ、そういったものも、それ以外の多くの作品の中に埋没して、改めて、振り返られることはない。
去年のアニメを席巻した作品として、リコリコとぼざろを挙げさせてもらったが、アニメ「リコリス・リコイル」を見たとき、私が最初に想起したのは、アニメ「四月は君の嘘」だった。
つまり、錦木千束(にしきぎちさと)が、井之上たきな(いのうえたきな)に、自分の余命のことを語るわけだけれど、これに、たきなは、ひどく動揺するんだよね。なぜなら、千束の、あの無上なまでの「明るさ」は、たきなをはげますための「明るさ」の裏に、常に千束は自らの
- 余命
を考えていた、ということに、たきなは大きく、深く考えさせられるわけですよね。たきなは知らなかった。千束にそういった秘密があることを。だからこそ、それを知ったときの動揺は大きかった。
たしかに、君嘘に似ている。主人公の有馬公生(ありまこうせい)は、幼い頃からピアノの才能を開花させてきたが、母親の態度に苦しみ、音楽の道に挫折する。そんな彼の前に現れたのが、宮園かをりだった。彼女は、そこまで音楽の才能があったのかどうかは分からないが、有馬公生は彼女にショックを受ける。その前向きな姿勢であり、エネルギッシュな熱意に。
作品の最後に、宮園かをりは病気で亡くなる。そして、有馬公生はその事実を知ることになるのだが、少しずつ彼が音楽の道を再び目指すようになることが描かれて、作品は終わる。
そういえば、こういった系統の作品として、アニメ「TARI TARI」についても考えておきたい。
主人公の坂井和奏(さかいわかな)は、作品の最初で、音楽科から普通科に転籍してきたことが分かる。彼女は母親の死において、なぜ自分に病気のことを言ってくれなかったのかに悩んできた。母親の坂井まひる(さかいまひる)は、この作品の最初の段階ですでに亡くなっていて、故人である。和奏の高校受験の後に彼女は亡くなっているが、和奏は母親の病気のことを知らず、常日頃、母親に自分のストレスをぶつけて、気まづい日々を送っていた。
和奏は音楽の道を目指す理由がなくなり、自分の部屋にあったピアノも父親に棄ててもらうようお願いして、きっぱりあきらめようとしていたとき、たまたま、父親から母親がなにを考えていたのかを教えてもらう。
彼女の母親は知る人ぞ知る、音楽家だった。彼女の才能を知って彼女を慕ってくる人も多くいた。彼女は自分の命がこの先長くないことを知って、父親に和奏に自分の病気のことを教えないでくれと頼む。それは、二人の間には約束があったから。二人で、和奏の歌を一緒に作る、という約束が。母親はそれが、悲しい別れの歌になることが嫌だった。和奏に前向きな歌を作ってほしかった。
こうやって、三作品を並べると、確かに似てはいるけど、違っている所も多い。すこし、そういった点について整理してみよう。
- リコリコ ... 錦木千束(自らの死と向き合って生きる)<---> 井之上たきな(相手にはげまされる&相手の余命にショックを受ける)
- 君嘘 ... 宮園かをり(自らの死と向き合って生きる)<---> 有馬公生(相手にはげまされる&相手の余命にショックを受ける)
- TARI TARI ... 坂井まひる(自らの死と向き合って生きる)<---> 坂井和奏(相手にはげまされる&相手の余命にショックを受ける)
そして、類似点として、
という形だろう。
差異として大きいのは、
結局、錦木千束・宮園かをり・坂井まひるが、前向きで明るいというのは、そこには
- 刹那的
という面が確実にあるんだよね。つまり、本当はそういった「ナイーヴ」なところが、その「ユーモア」さにはあるんだけれど、井之上たきな・有馬公生・坂井和奏には、その段階ではまったく気付いていない。だからこそ、
- あのとき、こうしておけばよかった
という「後悔」が後に残る。
しかし、錦木千束・宮園かをり・坂井まひるの側からすると、「それでよかった」という気持ちがある。
錦木千束・宮園かをり・坂井まひるにとって、自分とは
- 去っていく側
だ。つまり、自分はいずれいなくなる側だから、だからこそ、相手は「残っていく」側として、
- 自分じゃなく、「相手」が重要なんだ
という確信のようなものがある。自分がどうのこうのはどうでもいい。相手なんだ。だって、そっちが「残る」のだから、残る人にとっての未来が開かれなければならない、と。
私たちが胸が苦しくなるのは、錦木千束・宮園かをり・坂井まひるの
- 無償の贈与
なんですよね。その「大きさ」が、あまりにも大きいがゆえに、心をゆさぶられてしまう。
この三つを比べて、最後に言及しておかなければならないのが、宮園かをりだと思っている。最終回の彼女が死んだ後に、生前の彼女、有馬公生に出会う前の彼女が「どんな女性だった」のかが、描かれる。ここで、彼女は有馬公生の
- ファン
だったことが分かる。彼女は昔から、有馬公生を見ていた。そして、彼にずっと、あこがれていた。つまり、彼女が有馬公生と関わることになることには、嫌らしい言葉を使うことを許してもらうなら、そういった彼女なりの「下心」があった、とも言えるわけだ。
しかし、考えてみてほしい。彼女はそういったこともあって、彼に近づき、アプローチした。でも、もう彼女は死ぬのだ。死を目の前にして、彼女がなにかをやりたいと思うことを、誰が責められるだろう。彼女はやりたいと思ったことをやった。
3人に言えることだが、彼女たちは「やりたい」と思ったことをやって、最後の命を燃やして、生きた。生きるとは、こういうことなんだ...。
追記:
差異として、もう一つ指摘しておくべきは、
- リコリコ ... たきなは千束の余命の話を聞いて、動揺する。
- 君嘘 ... 有馬公生は、宮園かをりの体調不良を知って悩むが、コンサートの後、彼女に「もう一度、一緒に演奏をしたい」と告げることで、宮園かをりは命の危険のある手術を決断する(ちょっと、うろ覚えで、あまり覚えていないが)
- TARI TARI ... 坂井まひるは坂井和奏に自分の余命について教えなかった。そのため、和奏は直前まで、彼女の受験に関係して、母を責めるような喧嘩をしている。そのこともあって、母の死の後、後悔するとともに、なぜ母は自分に教えてくれなかったのかの謎に悩むと同時に、教えてくれなかった母を責める気持ちが混在した状態で苦しむことになる。
だろうか。
こうやって見ると、宮園かをりは可能性は少なくても、(有馬公生の言葉もあって)最後まであきらめなかった、抵抗した、といった違いは大きいのかもしれない...。