なぜ日本が植民地にならなかったのかの話

世界史の勉強で、アジアで植民地にならなかったのは、タイと日本くらいだ、みたいなことが言われる。タイは、植民地と植民地の間の緩衝国のような状態だったからみたいに説明されるが、日本についての

  • 理由

を説明したものっていうのは、あまり見かけない。もちろんそう言うと、日本ホルホルみたいな話になって、日本民族の優越性みたいなことを言いだしたくなる人もいるわけだから、みんなが注意して議論をしている、ということなんだろうけど。
そこでよく話題となるのが、次の二つだ。

m.youtube.com

なるほど、分からなくはない。まず、WW2以降は日本は占領されたわけで、そう考えるとそこで、日本は「アメリカの植民地になった」といった側面がなかったのか、というのは一つの解釈としてありえるのかもしれない。つまり、ここでの植民地をもっと広い概念として考えるなら、と。
そう考えると、WW2以前が問題ということになる。
上記は幕末にひとまず注目するということになっているが、確かにこの点も興味深い。ペリー黒船が来たわけだけど、幕府はかなり、したたかに振る舞っているように思われる。しかも、上記の動画では、江戸の市民が黒船が来たことに、そこまで動揺していないことが描かれている。黒船を見るために、野次馬が集まってきていたり、と。
まず、幕府はペリー黒船と交渉をすぐにやらない。追い返したり、その間に、フランスと交渉をしたりと、したたかに振る舞っている。まず、当時の日本は銀がとれたりと、かなり貿易に熱心だったりする。大砲をフランスやイギリスから買ったりと。
つまり、ペリー黒船と本気で「戦争」をすることを考えている。しかし、言うまでもなく、ペリーは日本を攻めるにしても、補給路があるわけでもないし、そんな簡単じゃない。つまり、ペリー黒船が日本を植民地化させるということの含意には、

  • 脅して、言う事を聞かせる

という戦略があった。しかし、それに対して、日本の外交は、当時のレベルとしては戦略的に振る舞ったということなのだろう。
ここで視点を変えてみたいのだが、古くは日本はずっと、外国からの侵略にあってきた。元寇もそうだし、キリスト教の宣教師も江戸以前は多くいた。じゃあ、なぜ、そういった宣教師が排除されたのかはよく分からないが、日本の支配者が日本人が奴隷として売買されるのを嫌がったから、といった意見もあったりする。
そもそも、信長の頃から、かなり鉄砲を戦術として取り入れている。そのためには、大量の鉄砲が必要となる。これだけの量をそろえていた国家というのが、西洋の国でもどれだけあったのかと考えれば、かなり日本が「武装化」された国という印象をもつのは当然だろう。
江戸時代にしても、日本は海外のものを流入させなかったわけじゃない。長崎出島などを使って、江戸幕府は貿易をやっていた。そこから、海外の書籍なども入っていたし、大砲などの武器も買っていた。
つまり、江戸幕府は常に、海外からの侵略、植民地化に備えていた、と言えなくもないわけである。
ただこう言うと、人によっては思うだろう。そうはいっても、日本なんて小さな国なんだから、自国民で自国を守れると考えるのは無謀なんじゃないか、と。しかし、それは「合理的」かどうかの話になってくる。相手が日本と戦争をして勝てるかどうかはそうなのかもしれないが、そもそもそれをやることが「割に合う」のか、ということとなると話は違ってくる。日本を戦争で滅ぼしたって、植民地にしたって、その維持のコストなどを考えると、そこまでやることなのか、というのは疑問になってくる。
また、古代ギリシアの話が分かりやすいけど、小国であることが、その国の「貿易力」を低く考える理由にならない。売るものがたくさんあれば、どんな最新鋭の武器だって買える。そうやって、日本は金や銀を売りまくったため、今では、ほとんど採れなくなってしまったが。
こうやって考えると、過去の日本は、かなりの財産を

  • 散財

したこともあり、国全体としては「裕福」だったと考えることもできる。しかしそのため、(過去の日本人が国内の金銀を使いまくって散財したので、残ってなく)今の私たちは苦労している、と言えなくもないが。
ただ、もう一つの点が気になっている。それは、幕末江戸の「識字率」についてだ。
なぜ植民地化されなかったのかを考えるとき、多くの植民地では、被植民地国による「教育改革」が徹底した現地の文化破壊に直結している。つまり、学校システムが導入され、被植民地国の教育が必須化される。
しかし、そういったものには他方で、メリットもある。それが、文字の読み書きの習得だ。
つまり、植民地化には常に、その二つの拮抗がある。
対して日本では、幕末江戸では寺子屋が庶民を含めて、普及していた。そして、日本の識字率の高さに大きく貢献していると思われるものが、

  • ひらがな・カタカナ

だろう。これらは学習コストが低い。つまり、かなり低学年で学べる。しかし、そうすると、ある意味で、

  • 日本語の読み書きが「できる」

と解釈することができる。考えてみてほしい。例えば、ハングルだったら、ハングルは「ひらがな」のようなもので、つまり、ハングルで書くということは、全部、「ひらがな」で書くと言うことと同値になる。
もちろん日本語には漢字があるわけだが、じゃあ、ひらがなを習いたての子どもが漢字が混じった文章をどう読んでいるかというと、

  • 漢字を飛ばして読んでいる

わけだ。つまり、漢字の部分は「推測」で読む。
そんなんじゃ、読めているうちに入るか、と思うかもしれない。
しかしこれは、大人の日本人が難しい漢字が混じっている文章を読むときに普通にやっていることだw
ようするに、どういうことか?
「ひらがな」を読むということは、そもそも「活字言語」を操る人間という存在を、

  • 必要十分

に「定義」している、ということなのだ! よく、幼い日本の子どもが、まるで「哲学者」のように見えることがあるのは、彼らが「ひらがな」を駆使して、書き言葉と話し言葉を操って、内省している姿が、まったく、大人たちが哲学を行っているときの「それ」と、完全に「同型」だからであろう。そもそも、その二つを本質において区別する、なにものもないのだ...。