縄文時代の人口

縄文時代というのは、日本の義務教育を受けた人には、教科書の最初に何行か書いてある程度の、まったく何を言っているのか分からない時代区分として、見て見ぬふりをしていても、テストの成績にはまったく関係ない、そういったまったく意味不明な概念で終わっている。
いずれにしろ、縄文時代というのは、あくまでの「日本史の歴史区分」として登場したものに過ぎない。
しかし、人類の歴史において、なにか「日本の歴史」なるものをそれと区分して考えることに、どれだけの意味があるのか、というのは素朴な疑問なんじゃないか。
というのは、「日本語の歴史」なら分かるわけである。その言葉を話していた人たちの系譜という意味で。しかし、縄文時代とはそうじゃない。まず、現代の日本人の遺伝子の2割くらいが縄文人から来ていると言われている。まあ、この2割を多いと考えるかどうかはあるが、そうだとするなら、おそらく、縄文人は私たちが今話しているような「日本語」を(少なくとも「最初」から)話していたと考えることは不自然だろう。それは、アイヌ語が、今の日本語とは違った系譜だっただろうと考えることに似ているのかもしれない。
しかしこの「2割」をどう考えるかは重要だ。2割は、この日本列島に昔から住んできた人たち、つまり、「日本人」そのものの系譜なわけで、まさに

  • 日本の歴史そのもの

と言ってもいいわけだ。
まず、旧石器時代と呼ばれる時代において、まだ氷河期の後期だった頃、アフリカで発生した人間はマンモスなどの獲物を追って、日本列島に多くの人がたどり着いたと考えられる。つまり、この頃は氷が地面を覆っていたため、日本列島と大陸は陸続きだった。少なくとも、北海道の方からは、普通に大陸と往来ができた。
その頃は、石器を作って狩りに使っていたことが分かっている。
じゃあ、縄文時代とはなんなのかだけど、そうやって日本列島にやってきた人たちは、それ以降、地球温暖化もあって、陸から離れて孤島となっていく。そして、狩りをする大型哺乳類も減っていく。そういった中で、日本列島にとり残された人たちが、独自に生きていく手段として

  • 定住

をしていたんじゃないかと推測できる「象徴」として、土器が発見される時代という意味で、(土器の模様がこっていて目立ったので)縄文時代という歴史区分が使われる。言うまでもなく、土器は壊れるので、これをもって移動が普通はできないわけで、常識的に考えて、どこかに定住していたんだろうと判断される。
しかし、これに困ったのが歴史学者だ。なぜなら、世界の4大文明を見ても、定住と「稲作」「農業」の区別がないからだ。
しかし、「稲作」「農業」が行われたと発掘から判断される時代は、弥生時代と区別されているわけで、なぜ日本ではこの二つが分断されたのかが謎とされている。
実際に、4大文明と比べると、日本の縄文時代はかなり早い。世界最初の「文明」とさえ言いたくなるような、独特の文化生活が見られているために困っているわけだ。
まあ、普通に言われているのが、日本列島が自然に恵まれていた、ということだろう。山の幸も、海の幸も豊富に採れて、大型哺乳類の絶滅に、「定住」というライフスタイルの変更だけで対応できた、恵まれた地域だった、ということなのだろう。

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こちらの動画では、以下のように、時代区分と人口の推計が紹介されている。

  • 草創期:B.C.14000〜、人口:2000〜3000 ... 日本列島が大陸から孤立。弓矢。竪穴式住居。
  • 早期:B.C.8000〜、人口:20000 ... 九州でカルデラ噴火。初期農法、弓矢、網戸、土器。小型土偶
  • 前期:B.C.4000〜、人口:100000 ... 温暖化。丸木船。耳飾り、勾玉。漆製品。
  • 中期:B.C.3000〜、人口:260000 ... 塩。土器が派手。抜歯。
  • 後期:B.C.2000〜、人口:160000 ... 寒冷化。祭事。
  • 晩期:B.C.1000〜、人口:80000 ... さらに寒冷化。弥生時代へ。

そもそも当時の社会は社会といっても、20人程度が集まって生活していた。いわば、全員が親戚みたいな集団だった。ただ、それぞれの集落は交流がなかったわけじゃない。おそらく、そういった交流が発生したときに、男女が出会い、子どもをみごもるということがあったのだろう。とにかく、当時は、平均寿命が短い。30歳くらいで、とにかく、小さい子どもや乳幼児が、どんどん死んでしまう。よって、母親の出産へのプレッシャーは大きかっただろう。
じゃあ、なぜ縄文時代は終わったのかということでは、上記にあるように「寒冷化」が大きかったと考えられる。
以前も紹介したように、3000年前くらいに、中国から、今の日本語起源となるような言葉を話す、大河のほとりに住んでいた、稲作を生計にしていた渡来人が多くくることになって(丸木船よりは大きいが、まあ、小型の船ですね)、ここで日本語のルーツが日本列島に広がる。
寒冷化によって食料がとれなくなった関係で、稲作農業の普及が重要になって、弥生時代に突入する。確かに稲作は安定した食料の確保という意味では効果があったが、より大規模な人間の組織化を必要とすることになって、それに伴って、村落が巨大化して、人間の職種による階級化が進み、身分制であり差別や人間同士の対立・紛争・戦争が多く見られるようになっていく。
魏志倭人伝にもあるように、日本には馬や牛によって、「高速に移動」するという手段がなかった。まあ、船で大陸から連れてくるというのが難しかったのだろう。そういう意味では、そもそも、なかなか村と村が出会うということが難しかったとも考えられるわけで、ただそうは言っても、中国ほどは広くはないので、何日かかければ、相手のところまで行ける...。


追記:
縄文時代の人口の話を書いたが、じゃあ、弥生時代はどうだったかというと、

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つまり、

  • 弥生:B.C.300〜A.C.250、人口:600000 ... 大規模稲作、大規模集落、分業・身分階級

稲作などの農業は、小規模なものは縄文時代も場所によってはあったが、ここまでの規模のものは、この頃から始まっていて、とにかく、寒冷化で縄文後期から人口が減っていたのに、急激に人口が増えている。そして、人口が増えると共に、(青銅器、鉄器の武器の普及などもあったのだろう)争いや戦争が見られるようになる。
この変化を、「大陸からの渡来人」の影響と考えるのは正しいのだろうか? 日本語、つまり、トランスユーラシア言語が、およそ9000年前の、中国の遼寧省(りょうねいしょう)にある西遼河(せいりょうが)流域の黍(きび)農耕民がルーツだと言われ、日本にも3000年くらいに本格的に流入してきたと言われているわけで、その頃には彼らの主食も米になっていて、まあ、だいたい弥生時代と重なるわけで、整合性はついている。
ただ、そうやって彼ら、今の日本語(トランスユーラシア言語)を話す人たちが大規模稲作を縄文後期の、寒冷化で人口が減っていた日本に入ってきて、日本の人口が増えていったとき、それを、単純に

  • 渡来人に入れ替わった

と考えるべきではないのかもしれない。つまり、少数が入ってきて、彼らが(どういった手段かは分からないが)現地の人に稲作を広めて、結果として、全体としての日本の人口が急激に増えた、と。
その場合に大事なことは、いわゆるそういった「活発に渡来人の大規模稲作技術を吸収していった」地域と、そうでない、昔ながらの、縄文時代から続くライフスタイルを維持していた人たちが

  • 共存

しながら、その二つは、まあ、平安時代くらいまでは普通に存在していた。もっと言えば、離島などでは、もっと先まで、そういった縄文生活をしていた人がいた。
そういったいろいとを経て、今の、日本人の遺伝子の1割〜2割が縄文人ルーツのもの、といった構成となっているのであって、単純にそれが多いとか少ないとは簡単に言えない、ということなのでしょうね...。