Liella!3rdライブ最終公演で起きた「事件」

今日は、アニメ「ラブライブ・スーパースター」から登場した高校生アイドルグループ「リエラ」のサードライブの最終公演として、埼玉ベルーナドームで行われた。
そして、まあ、いろいろな思いもあって、この最終公演については、最速抽選で申し込んで当選して、私も参加させてもらった。
(席はアリーナの8列目で、右端だったが、ちょうど角が丸くなっていて、前には誰もいなかった。ただ、さすがに舞台の中央は遠くてよく見えなくて、巨大スクリーンを見ていたが、ゴンドラが目の前を通るときは、2メートルくらいでじかで対面する形になって、目が合う感じだった。)
この最終の埼玉公演が重要だったのは、これが、リエラの初の「声出しOK」のライブだった、ということがある。
といっても、このことの「意味」がよく分からない人も多いんじゃないかと思っている。
そもそもラブライブシリーズとは、無印から始まって、サンシャイン、虹ヶ崎、そして、スーパースターとずっと引き継がれてきたコンネンツだ、という認識がある。このシリーズコンテンツが「重要」なのは、少し前からの

を知っている人にはよく分かるんじゃないかと思っている。秋葉原を歩けば、ゲームセンターからどこから、ラブライブのコンテンツによく出あったわけだ。それは、今では、アイマスなど、こういった「ラブライブ商法」に便乗したコンテンツも、めずらしくなくなったこともあって、「なにが新しいのか」と不思議に思うかもしれないが、当時の無印が登場したきたとき、そもそも

  • (アニメ)オタクが、アイドルのコンサートに行く

ということが信じられなかったのだw アイドルとオタクは別に考えられていた。アイドルのような「キラキラ」したコンサートに行くような人は「リア充」の、アニメのような、オタク・コンテンツを絶対に消費しない人たちだと考えられていた。つまり、そういった時代に、(アニメ)オタクを、アイドルのコンサートに足を運ばせたのが、ラブライブというコンテンツだった。
この「衝撃」はすごかった。どう考えても、アキバでまったりしているようなオタクが、コンサートの会場に放り込まれて、

  • オタク・ダンス

を踊ったり、声援という名の「嬌声」を発する姿は、画期的だったと同時に

  • 新たな「ビジネスモデル」の可能性

を感じさせるものがあった。とにかく、まったり、家に籠っているような「引きこもり」を、ライブ会場に連れて来た(そしてそこで、お金を使わせた)というだけでも、画期的で、多くの人を驚かせたわけである。
こう簡単にまとめさせてもらったけれど、これがどれだけ決定的なことだったのかと言われても、あまりぴんと来ない人も多いんじゃないかと思う。その後のアイマスの登場、AKB48のような、最初からオタク的な人をターゲットにしていたようなコンテンツの登場などによって、ラブライブ

  • 相対化

されていったんだと思う。しかし、そういった歴史的経緯の中で、ラブライブというコンテンツは続いてきた。そして、続いてきたと同時に、ラブライブは、ある種の「文化」を継承してきた。
その一つに、ライブでの「声出し」がある。この「声出し」という表現を見て、多くの人は、なにか「アナーキー」な状態をイメージしたんじゃないか。いろいろな人が、テメエ勝手に、好き勝手なことを言っているような状態。しかし、そこまでのととは起きていない。というのは、過去のラブライブシリーズの「声出し」の

  • パターン

から考えで、どこで、どういった「声出し」を行うべきかは、そもそも最初から予想できたからだ。
そして、そういった「声出し」に関する「レクチャー」を意図した動画は、ユーチューブに多く上がっていたし、実際に、ライフ会場での「それ」は、ほとんど、そういった人たちが意図したような範疇で行われていたことは間違いないんじゃないかと思っている。
ラブライブ・コンテンツとは、言わば、そういった「コア」な、日本のアニメ・オタク的な第一世代が、始めてコンサートに足を運ぶようになった、

  • 当時の息づかい

を残している、貴重なコンテンツなんじゃないかと思っている。言わば、このシリーズは、連綿として、ラブライブシリーズとしての「伝統」を、制作側も、ファンの側も「大切」にして残してきている、ということを痛烈に感じるのだ。
しかし、いずれにしろ、リエラにとって、この埼玉公演が、ラブライブシリーズの声出し公演としては最初だったわけで、それは

ように、一定の水準の秩序と礼節を守られた、好意的に受け取られる、すらしいものだったことは安心すると同時に、ラブライフコンテンツの強さを感じられたわけだ。
ただ、こんなにいろいろなことを書いてきておいて、今さら言うのは申し分けないのだが、そもそも、今回の公演の内容はライブ配信も行われていて、会場に来なかった人も普通に見られるわけで、私が嘘を言っていると思ったら、あなたはいくらでも、配信のストリーミングで、実際にどうだったのかを確認できる。
そして、私は多くの人にこの配信を見てもらいたいと思っているが、実は、私なりに、ある「予感」があったことは確かなのだ。
つまり、なんらかの

  • 事件

が起きるんじゃないのか、という予感があった。そしてそれは、このサードライブの「最後」だから起きうるんだ、と。
というのは、このブログを読んでいる人には自明だろうけど、私はさまざまな形で、アニメ「ラブライブ・スーパースター」の2期の「問題」について言及してきたからだ。つまり、この「問題」について、最後まで、誰も知らぬ存ぜぬ、ということはできないんじゃないか、と思ったわけである。
この2期のアニメの「出来」については、多くの意見がある。もちろん、そのことが直接には、こういったライブ活動に関係するわけじゃない。しかし、だからといって、これを無視して自分たちが「やっていること」を客観的に評価する、というのも、ないんじゃないか、と思われるわけだ。
その「事件」は言うまでもなく、ライブ最後の、キャストそれぞれの感想を述べるところで起きた。まず、オニナッツの声優と、葉月恋の声優が、過去の「つらかった」自分の気持ちを述べている。
なぜ、この二人が改めてそのことを言わなければならなかったのかは、言うまでもないだろう。この二人は、登場時点で、完全に

  • 悪役

として登場させられている。つまり、登場から最初の数話では、「リエラの敵」扱いで、発言をさせられている。当然、売り言葉に買い言葉で、ファンの、二人への

  • 攻撃

も激しくなる。そうした中で、彼女たちが「傷つき」、自分は本当に受け入れられているのかに悩むわけだが、このことは、ある意味で、「当然」だと思うわけである。
ファンは、そういう意味で、「無責任」だと言えるだろう。自分が数話前に言った、「ひどい」言葉を忘れて、今は、「大ファン」みたいなことを言っているわけだが、そんなにコロコロ変わる意見に、どうして信じられるだろうか。お前、少し前に、あれだけ「ひどい」言葉で、罵倒してたじゃないか。
もちろんこれは、「脚本」上の、いろいろな「都合」があったのだろうと理解を示すことはできる、しかし、たとえそうだったとしても、あまりにも

  • 下手

なんじゃないか? そうやって、ここまで「声優」を

  • 苦しませる

ことになるような脚本って、なにかを根本的に間違っているんじゃないか?
もちろん、この二人についてはこういったわけで、分かりやすい所もあるので、「よくある話」で済まされるかもしれない。そういう意味で言うなら、澁谷かのん演じる

  • 伊達さゆり

さんは、完全に2期の「被害者」と言っていいと思っている。
彼女は、あまりに「かわいそう」だった。
彼女は一期のとき、自分とかのんは「似ている」と言っていた。つまり、彼女には弱いところが一方にありながら、前を目指してがんばっている、という意味で「共感できる」と考えていた。
ところが、二期では、かのんの「弱点」が、すでに一期で「克服」された存在として、もはや、

  • 最強

の才能の塊みたいに回りが扱い始めて、

  • あらゆる「大人」が、彼女の「才能」をベタ褒め始める

まあ、「かわいそう」だよね。大人が、こういうことをやったら、駄目だよ。一人の、将来にまだまだn学ばなければならない子どもを、意味不明に

  • 才能

とかいう言葉を使って、「化け物」にしたら、その時点で、すべてが壊れる。まず、最初に、声優が壊れる。
あのさ。
これって、前からそうなの。ラブライブコンテンツは、歌も、声優も、歌手も、ずっといいわけ。最低限のレベルのコンテンツをずっと作り続けている。あと、アニメの絵の品質も評判が高い。これに対して、

  • アニメの脚本

が、ずっと、批判されてきた。そしてそれは、ずっと改善されないまま今に至っている、という印象がある。
もちろん、スーパースターは、この後、3期が待っている。もしかしたら、ここで伊達さんがこういった「感想」を述べることができるようになったのには、なんらかの3期で「変わる」話を聞けたから、なのかもしれない。
ただ、全体的に思うのは、やはり脚本が、さまざまな多くのことと「整合性」がとれないで作成されている、という印象だろう。「We will」などの曲の歌詞は、明確に、ラブライブで勝利を目指すことを意図しているような内容になっているが、2期の全国大会は、完全に、かのんの留学の話にもって行かれて、刺身のつまのような扱いになってしまっているわけで、あまりに「言っている」ことと、やっていることとのギャップが気になるわけだろう。
結局、さまざまな脚本上の、次の「展開」を考える

が一方にありながら、それらが、本当に、この作品の「訴えたい目的」と整合性があるのか、といった点での、徹底した検討が足りない印象がある。ぎりぎりで脚本が上がってきて、もはや時間がないから、最低限のチェックでOKを出してしまう、といったような、そういった「やりとり」が想定されるわけだ...。