グリッドマン ユニバース

テレビアニメ「SSSS.GRIDMAN」と、その後継作品「SSSS.DYNAZENON」の、さらに後継作品として、今回の映画が公開された。
作品としては、この二つの作品の登場人物が大集合する、いかにも、映画版といった感じの作品であるわけだが、もともとは、1993年の実写特撮「電光超人グリッドマン」を

  • 原作

とする作品なわけで、つまり、GRIDMANで、「電光超人グリッドマン」で登場させられなかったダイナドラゴン相当のメカが登場する作品として、DYNAZENONが、まったく、登場人物を重ならせない形で作製された、この二つの世界を「ユニバース」として、

  • 重なる二つの世界

として映画化された、というわけだ。
とりあえず、この映画を見たんだけど、そもそも私はDYNAZENONのテレビシリーズを見ていないw まあ、分かんなくてもいいかなと思って見てた。それで、どれくらい困るかなと思っていたけど、もともと違う世界だし、世界観としてはGRIDMANが中心でDYNAZENONは補足的な感じだったので、そこまで困らなかったかなとは思った。
結局、私が気になっていたのは、GRIDMANの方の世界観だったので、これはこれで、それなりに楽しめた。
テレビ版のGRIDMANを見た人には分かるように、「この世界」は、全て、新条アカネが「作った」世界として示されている。つまり、この世界の全てが、新条アカネという「この世界」にも存在して、リアルワールドにも存在する少女が

  • 想像した

世界であることが分かっている。つまり、新条アカネが「創造神」として、この世界の全て(全ての登場人物も)を「作った」わけである。
しかし、もしもそうだとすると、普通に考えると、

  • 自分が「作りもの」だということに「不安=生きる意味」を感じる

ということにならないだろうか? つまり、現代的な感覚で言うなら、

  • 自分が(リアルワールドの人間によって作られた)ロボットであり、そもそもの自分が生きている、この世界自体が(リアルワールドの人間によって作られた)偽物だった

ということになるわけだから。
ところが、である。
「SSSS.GRIDMAN」のテレビシリーズを見ると、なぜか、ここの部分が注目されていない。いや、正確に言うと、劇場版の観点から言えば、そもそも、この「問題」を「知っている」のは、主人公の響裕太(ひびきゆうた)の親友の内海将(うつみしょう)と、ヒロインの宝多六花(たからだりっか)の二人だけで、その二人が、なぜか気にしていない、ということなのだ。
今回の劇場版は、テレビシリーズの「アフターストーリー」となっていて、ここで、内海と六花の二人が、学園祭のクラスの出し物の演劇の脚本を作製するとなって、このグリッドマンが存在して、自分たちの世界が「偽物」であるという

  • (新条アカネに作られたという)真実

を描くことを目指す、というわけで、本当なら、上記で記載した問題が重要になるんじゃないか、と思ったわけである。
しかし、結果として、この劇場版でも、その問題は大きくとりあげられなかった。
なぜなのだろう?
そう思って、ネットでも、いろいろ調べてみたけど、一つ思ったのは、そもそもこの作品が「分かりにくい」ということがある、と思った。というのは、ストーリーが複雑ということではなくて、そもそもの

  • この世界の世界観

が、ほとんど説明されていない。説明もなしに、どんどんストーリーが進む。ここに、この違和感の正体がある、と思うようになった。

作中で描かれた世界は、“アカネが見ている夢、もしくはその脳内の空想”を、彼女の情動を欲したアレクシスがコンピュータ・ワールドに投影して作り出したもの。このためツツジ台の人々のことを「自分が自由に設定し、気に入らなければ派手に殺しても問題の無い存在」としか認識しておらず、アレクシスに唆されるままに怪獣を作り出し、街ごと蹂躙することを繰り返していた。
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ツツジ
物語の舞台となる町。一見日本のどこかにある普通の町に見えるが、実はアカネの夢(もしくは妄想)がコンピュータ・ワールドに投影されたことで生まれた世界。
この世界の建物も人間もアカネが設定して作り出したものであり、基本的には彼女の意のままにできるものとなっている。
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まずもって、この作品の「世界観」を正確に把握するためには、新条アカネが

  • リアルワールド

の人間で、基本的にこの世界(ツツジ台)は、アカネが「作った」ということを理解しなければならない。
ただ、その場合に、上記のアレクシスが行った「役割」と、この世界が「コンピュータ・ワールド」と呼ばれていることの意味を正確に理解する必要がある。
つまり、前者は、たとえ、アカネがこの世界を作ったとしても、アレクシスの「介入」がなければ、そもそもできていないということであって、後者は、たしかにこの世界は「コンピュータ・ワールド」と呼ばれているが、私たちが一般に考えている「コンピュータ」とは、

  • かなり違う

という、その「差異」である。

コンピュータ・ワールド
電脳世界の果てに存在するとされる異世界。名称はこの世界で生きる者たちが現代の人間に向けて説明する際に付けた便宜上のもので、人間がコンピュータやインターネットを作り出す前から存在している。
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レプリコンポイド
ツツジ台に生きる人々の種族。
コンポイドとは、もともとコンピュータ・ワールドにおいて定義される知的生命体の総称で、彼らの分類では人間もこの1種である。このコンポイドを人工的に再現したのがレプリコンポイドで、「ただの作り物であって生物ではない」とされていた。
しかし裕太を始めとして、レプリコンポイドの多くが自我に目覚め、これをして「レプリコンポイドではなくコンポイド(=人間)へと成長した」と見なされることとなる。
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つまり、確かにアカネが作ったこの世界は、「コンピュータ・ワールド」と呼ばれるものの一つとなっているわけだが、この概念自体は「もっと広い」ものを包含している。
次に、「レプリコンポイド」だが、この言葉は、実は、「SSSS.GRIDMAN」のテレビシリーズの最終話で、アレクシスが口にする。つまり、この言葉自体はテレビシリーズで登場するが、ほとんど、まったく説明されない。
というか、まず、「レプリコンポイド」の前に、

  • コンポイド

という概念を理解しなければならないはずなのだ。してこの、「コンポイド」だが、これはなんと、実写特撮「電光超人グリッドマン」の第6話で登場する。しかし、登場するのだが、それ以降のストーリーに関係しているわけではないw
非常に分かりにくいが、「レプリコンポイド」が「コンポイド」の

  • 作り物的な色彩のもの

であることを示唆しているわけだが、いずれにしろ、「コンポイド」とは「コンピュータ・ワールド」の住人のことなんだから、どっちにしろ、ロボットじゃないか、と考えると、何を言いたいのか、よく分からないわけである。
なぜ、これが分かりにくいのかは、つまりは、

が何者なのかの説明なしに、この「世界」を説明しようとしているから分かりにくいのであって、ここの謎から、この世界を「再解釈」する必要があるわけである。

グリッドマンの世界は
グリッドマンやアレクシスが産まれたハイパーワールドという高位世界があり
その下に現実世界や電子機器の中に実在するコンピューターワールド等の世界があります
ハイパーワールドの犯罪者は度々下位世界で悪さをして
ハイパーエージェントのグリッドマンに退治されています
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

作中ではコンピューターワールドは仮想世界ではなく実在します
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

グリッドマンは、このアニメでも「ハイパーエージェント」と呼ばれている。つまり、この世界は

  • 二つの階層

になっていて、

  • 上位階層:ハイパーワールド ... グリッドマンやアレクシスが産まれた世界
  • 下位階層 ... 現実世界やコンピューターワールド

という関係になっている。
まず、グリッドマンが産まれた世界であるハイパーワールドの住人からは、現実世界(リアルワールド)とコンピューターワールドは

  • 区別されていない

わけだ。だから、新条アカネが作ったものにすぎない「つつじ台」であろうと、グリッドマンは当たり前のように

  • この世界

の危機のために助けに来た。つまり、ハイパーワールドから見たとき、現実世界とコンピューターワールドには区別がない。というか、現実世界とは、

  • コンピューターワールドの一部

と考えられている。
ここで問題は、コンピューターワールドの「定義」なのだ。まず、そもそもこの世界は

  • 私たち人間が「コンピュータ」を発明する「前」から「存在」する

わけだ。つまり、ここで言っている「コンピュータ」は、私たちが考えている「コンピュータ」と重なる部分はあっても、同じではない。なんというか、このコンピューターワールドは、比喩的に言うなら、

  • 私たちが考える「コンピュータ」の世界を、究極的に「極限操作」した果ての場所に存在している

といったようなイメージのもので、「コンピュータ」と呼ばれているが、

  • 人間が「コンピュータ」を生み出したはるか昔から「どこか」に「存在」した

とされる「何か」と言うしかないものだ、というわけである。
だいぶ難しくなってしまったが、ここで、内海と六花の思考を考えてみたい。二人はなぜ、自分たちが人間ではないし、そもそもこの世界が(アカネが作った)ニセモノであることが分かった以降も絶望していないのだろう? いや、逆に、なぜ、この作品は二人を「絶望」にしなかったのだろう?
そう考えたとき、テレビシリーズでも(六花の言葉として)描かれているが

  • その世界の「内部」の人たちにとっては、なにを「生きる意味」と考えるかは、彼らがどう考えるのだから、リアルワールドの私たちがどうのこうのと考えることは無意味

というのはあるだろう。
この作品で一番強調されているのは、

  • 宝多六花という「普通=日常」

だったわけだ。主人公の裕太が記憶喪失であり、かつ、グリッドマンに変身するという「非日常」の極点でありながら、その彼女を好きになる六花は、一貫にして、この「世界」における、裕太から見た

  • 日常=普通

を象徴する存在として、い続ける。彼女の常に変わらない「普通」の、少し低めの声の調子などが、どこまでも、裕太をこの「日常」に、かろうじて、とどまり続けさせる。この

  • 非対称性

が、この作品を魅力的にすると同時に、裕太から見た、宝多六花を「魅力的」な存在として描くことに成功している。
しかし、逆に言うと、である。
劇場版で描かれるように、そもそも、この世界はアカネが作った「ニセモノ」なのだから、宝多六花が、まるで、来年も再来年も

  • この世界が存在している

かのように語るのは異常なわけである。六花は、裕太に向けて、来年も再来年も同じように生活していたい、ということを「ささやかな願い」として語るわけだが、私にはこれは、

  • 六花から裕太に向けての「プロポーズ」の言葉

のようにしか聞こえなかった。つまり、六花は裕太に、

  • 来年も再来年も「普通」に「ここで」暮らせるようにしてほしい

と「お願い」しているように見えたのだ。つまり「フラグ」だ。この世界を「普通」としてあらせるということは、つまりは

が「実現」すべき使命だ。つまりは、裕太でありグリッドマンが「この世界を守り続ける」ということを意味しており、六花は裕太の恋人になりたいとプロポーズした、ということだ...。