「SSSS.GRIDMAN」についての前回の補足

前回、グリッドマン ユニバースの映画を見た感想という形で書かせてもらったわけだが、そこで言いたかったのは、六花と内海がなぜ、自分たちであり自分たちの世界が、アカネによって作られた偽物であることに悩まないのか、ということだったわけだが、ようするに、確かに作られた初期段階は、私たちが知っている「ロボット」のように、非常に低レベルな行動しかできない

  • レプリコンポイド

と呼ばれる存在でしかなかったわけだが、裕太が六花に恋をしたために、アカネの支配の隙をついて、グリッドマンが裕太の体を使うことができたように、レプリコンポイドから

  • コンポイド

へと「進化」している、という裏の設定があるわけである。つまり、そのことは

  • 現実世界(リアルワールド)の存在と、(そうやって進化した先の)コンポイドでは、優劣がなくなる

ということを言いたい、と。つまり、

  • コンピューターワールド

という視点で見たとき、リアルワールドの私たちである人間と、(進化した)コンポイドは上下関係がなくなる。グリッドマンの視点からは

  • (同じ)コンピューターワールドの住人

として見えていて、どちらかを優先して救わなければならない存在として捉えられていない。どちらの「世界」も等価に救わなければならない、と考えられている。
そうした場合に、内海や六花が、自分たちが住んでいる「この世界」を、無碍に卑下する必要はないのnかもしれない、という議論が可能になる。
私たちが住んでいるリアルワールドと、(そうやって人格をもつようになった)コンポイドと、どっちの世界が「功利的に」救わなければならない価値があるのかは自明ではなくなる。少なくとも、グリッドマンという、上位世界のハイパーワールドの住人からはそう見えている、というときに、この「差異」はそこまで重要なのか、という考えがあるわけだ。
まあ、言いたいことは「ナイーブ」だ。裕太の六花への「愛」が

  • 本物

であることから、アカネが作ったこの「ツツジ台」のレプリコンポイドは、「コンポイド」というより上位の存在に進化できた、と。いずれにしろ、その「前提」を受け入れたなら、それとリアルワールドの人間との間には、もはや、上下の関係はない、と...。