裕太の「人格」

テレビシリーズ「SSSS.GRIDMAN」には幾つかの疑問がある。それらについて、少し整理しておきたい。
まず、テレビシリーズで描かれた範囲で、主人公の裕太は「記憶喪失」ということになっている。ただ、アニメを見ていくと、たんなる記憶喪失ではない、ということが分かってくる。
つまり、グリッドマンが裕太の体を借りていて、裕太の意識自体は、そのグリッドマンにのっとられた裏の方に隠れて眠っている、みたいに説明される。
そうすると、それは一体、どういうことなのか、ということが気になってくる。
確かに、テレビシリーズの最終回で、後で、裕太の「意識が戻る」と、内海はその裕太の姿のグリッドマンから教えられ、そのままテレビシリーズは終わるわけだが、実際に、劇場版は、その意識が戻った裕太の状態から、アフターストーリーは描かれている。
つまり、テレビシリーズの間の裕太の「状態」の、正確な定義がよく分からないのだ。
もしも、その間の裕太が完全に「グリッドマン」の意識なら、この話はグリッドマンが「人格」として行動していた、ということになる。つまり、裕太という体を借りて、グリッドマンが行動していた、と。つまり、これは

  • 裕太じゃなかった

ということになる! 私たちは裕太と六花の「恋愛」を見ていたと思っていたわけだが、「あれ」は裕太じゃなかった、ということになる。
じゃあ、そうじゃないとするなら、この関係をどう考えればいいのだろうか? まず、ここでは、

  • 肉体と意識と人格

を区別する必要があるのかもしれない。裕太の肉体は、グリッドマンがこの世界で実体化するために必要とされる。よって、裕太の肉体はグリッドマンによって使用されている、という関係になっている。
次に、裕太の「意識」については、裕太の奥底で「眠っている」といった説明がされていたように思われる。つまり、表は「グリッドマン」のそれだが、心の奥底には、眠った状態で、裕太の記憶喪失前のものが存在して残っている、と。
最後に、グリッドマンが裕太の肉体を借りて、そこに実体化しているときの、その存在と裕太との関係が気になってくる。この時の裕太は裕太じゃなかった、と言っていいんだろうか? 確かに、劇場版では、裕太はテレビシリーズのときの記憶がない。つまり、その間の裕太は「継承されていない」ということになる。しかし、たとえ記憶がなかったとしても、裕太を「使って」グリッドマンが裕太の姿で、そこにいるためには、なんらかの

  • 裕太の人格

のようなものがなければ、不可能だったのではないか?
ただ、ここの関係の記述は曖昧なように思われる...。