方言文学についての考察

アニメ「サマータイムレンダ」を見ていて、当たり前のように、島の住人の登場人物が「方言」を話していることに、いろいろと考えさせられるものがある。
まあ、見ている限り、そこまで、聞いて意味が分からない、といった方言はそれほどなかった印象があるが、場所によっては、まったく、なにを言っているのか分からない場合もあるだろう(最近の流行としては、字幕で、標準語訳が記されるのだろう)。
例えば、村上春樹の小説を考えてみたい。ここには、一切、方言がでてこない。もちろん、主人公のモノローグも東京弁だ。おそらく、村上自身が関東圏の出身なのだろう。
村上の場合、英文学の翻訳家でもある、というのが特徴だ。彼ら「大卒」であり、英文科か、外国語大学出身か、どっちかなのだろう。
そう考えると、村上の文体は、どこか「翻訳文」であると思われる。つまり、登場人物が話している言葉が、普通の日本語に見えない。なにか、

  • 英文の「直訳」された日本語

を読んでいるような気持ち悪さがある。そして、おそらく、村上はそれを、かなり意図的にやっている。
例えば、サブカルチャーの文脈では、「セカイ系」ということが2000年代に一部で言われた。それは、登場人物たちの「私的な感情」が、地域社会や家庭的な人間関係を越えて、一挙に

  • セカイ的な文脈

に繋げられた作品が作られた、といった意味になっている。
ところが、である。
そういった「セカイ系」の特徴は、登場人物たちが

  • 東京語(=標準語)

を話していることなのだ! 彼らはまるでそれが「自明」のように、標準語を話す。そして、そのことを不思議だと思わないのだ。
こうやって考えてみると、私には、なにか根本的な違和感がある。それは、東京中心主義と言ってもいいし、もっと言えば、

  • 欧米中心主義

とまったく同型に思われるのだ。
彼らは、そもそも地方に興味がない。地方に対する、なんの「共感」もない。地方の人が地元でがんばって苦しんでいることに、なんの感情もわかない。その典型が、原子力発電所だ。福島原発が爆発しても、東京が「平和」だったら、

  • 福島の「被害」を、福島内部に閉じ込めることによって、「東京ワンダーランドを救う」

わけだw 奴らは本気で、東京のために、地方を「犠牲」にすることをためらわない。この「非人間性」こそ、

  • 東京語中心主義者(=標準語中心主義者)

の特徴だ。
私にとって恐しいことは、京アニのアニメ「響け!ユーフォニアム」が完全な

  • 標準語

で作られたことの「恐しさ」だった。原作は主人公の黄前久美子(おうまえくみこ)は原作でも、都会出身ということで標準語を話しているが、他のクラスメートはほぼ、地元の方言を話している。ところが、これをなんと、京アニは全部

  • 標準語

に変えやがったw この「原作破壊」に対して怒りの声が上がらなかったことは、そもそもこの原作のファンがそれほどいなかった、ということなのかもしれない。
ただ、もともと私は京アニに対して、違和感をもっていた。例えば、劇場版「聲の形」のパンフレットを見ると、監督は、この映画が

  • どんなに映像や音楽が「美しい」か

を「自慢」している内容になっていて、そもそもこの原作が

  • <いじめ>と闘っている

という側面について、「まったく触れていなかった」ことが、気持ち悪くて、吐きそうになったことを覚えている...。

追記:
当たり前だが、アメリカの英語にしても、カリフォルニア州の人独特の特徴があったりするわけで、当然それは「方言」と呼ばれるべきものであるはずだが、おそらく、村上には、こういった差異は

  • 興味がない

のだw 私はこういった感性にこそ、なにか、根本的な、その人間の「欠陥」を感じざるをえない。彼らの、

  • 東京中心主義=標準語中心主義=英語「直訳文」中心主義

には、なんらかの「傲慢」な、隠微な権力意識が隠されている...。