一回性としての「青春」

アニメ「ぼっち・ざ・ろっく」の人気は、今までの日本のアニメ文化のパターンを踏襲しているという意味では、やっと、「まとも」な形で日本社会でアニメ文化が受容されてきた、ということなんだろうな、と思っている。
たとえば、このぼざろなら、

  • 舞台設定:女子高生の日常
  • スパイス:バンド音楽&ライブハウス

となっていて、通常の「女子高生もの」として、おたくが消費するストーリーに対して、そのストーリーの伏流として、バンド活動が一貫して、最初から最後まで、描かれる。
考えてみてもらえば分かるように、前者の舞台設定の部分と、後者のスパイスの部分は、直接的な関係はない。女子高生だからといって、ほとんどすべての女子高生はバンドをやらないし、逆に、バンドをやっているのは女性だけじゃなく、男性の方こそ多い。この関係を、ベン図で言えば、和集合の重なっている部分となっているわけだけれど、作品の

  • ターゲット

としては「和集合」になっているわけであることが、奇妙な全国的な

  • 反応

を呼ぶことになる。まず、前者の女子高生の日常もののアニメに、そもそも興味がないアニメおたく以外の日本人は、普通はこのアニメを見ない。じゃあ、このアニメはほとんど見られないで、いつものニッチなアニメおたくだけに消費されるのかというと、

  • 後者の音楽関係者が、このアニメの「ニッチ」な「こだわり」を発見していく

という形になって、口伝えに、噂が噂を呼んで、それまでのアニメおたく界隈と「まったく関係ないところ」で、話題が広がっていく。
そうした場合、大事なポイントは、後者つながりでこのアニメにアプローチしてきた人たちが、

  • 普段、その人が話さないようなこと

を話し始めるような効果があることだ。それが、

  • 青春

である。つまり、すべての人には、青春時代がある。そして、その人なりの、その時期を過している。それは、ばらばらだ。でも、その人は普段は、このことを話さない。なぜなら、

の大人になった文脈とは関係ないからだ。しかし、こうやって、前者と後者がセットになったストーリーで見せられると、自然と言及しないわけにはいかなくなるわけである。
例えば、以下のプロのミュージシャンの方なんだろうが、かなり好意的にぼざろを見てくれている。

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この人が最後に言っている、

  • この後のストーリー

は確かに、鋭いところがあって、原作の漫画ではその後のストーリーで、ぼっちが世間的に評価され、じゃあ、バンドはどうなるんだ、といった描写もあったわけだけど、だから、そこはポイントではある。
しかし、逆に言えば、そもそも、ぼっちは「友達がほしい」からギターを始めたわけで、そのモチベを考えれば、普通に友達が回りにできるようになるなら、バンドを続ける動機がなくなると考えてもいいわけなんだよね。
だから、ある意味で、未来にどういう道に進むことになるのかは、どういう形でもありうるし、どういう道を選んでもいい。大事なことは、この

  • 一回だけの青春

なわけだ。これはもう戻ってこない。そして、その時にやっていた馬鹿なことや、無駄なことや、意味のないことや、そういったなにからなにまでが、今の自分を形作っている。もうそれを変えることはできない。そういう一回性の何かとして、多くの人を熱く語らせる何かがあるわけだ...。