広島G7サミットに集まる各国首脳に向けて「今こそ停戦を」

広島でG7が開かれ、議長国が日本の岸田総理になることが分かっているわけだが、それに向けて、掲題の30人ほどの知識人がここに集まる首脳に向けて、ウクライナ戦争の「停戦」を求める運動として、記者会見を行われた。
この内容は、動画でネット上にアップされているが、興味深いのは、参加者からのお気持ちの表明の後に、その場で行われた

  • 記者からの質問と回答のやりとり

だったと思っている。というのは、そこでのやりときは、まさに

上で、伊勢崎さんや羽場さんが

  • 毎日

のように投げつけられている

  • 罵詈雑言

を、まさに「代表」する形で、その主張が行われたからだ。

武器取引反対ネットワーク・ナジャットのすぎはらこうじさん。この人のツイッターを読み上げますけど、かなり手厳しいことを書いているんですよ。「現状における停戦は、体制立て直しによるプーチンの侵略と占領(そのもとでの虐殺、拷問、レイプ、誘拐)の拡大につながりかねず、最低でも占領の固定化にしかならない。マリウポリのような大虐殺の証拠隠滅にもはかられて、ウクライナの人々がそれを容認するわけがない。プーチンのてのひらでおどるな、恥をしれ」というふうに、ものすごく強い口調で批判をされているんですね。このような批判を、似たような批判とかも、弁護士のしんほりさんとかもやってますし、こういう、左側の人でも、今回の停戦提案に対する批判は多いと思います。で、今回、停戦が破られるのは当然だ、みたいなお話もあったと思うのですが、まず、この左側の人たちで厳しく批判をされているのが、ナチスドイツや大日本帝国の延長線上に、そのプーチンの侵略主義があって、それだからこそ、70年間否定をしてきたからこそ、プーチンを許せない、信用できないというのがあるんですよね。
m.youtube.com

今、ツイッターを見てみればいい。毎日のように、伊勢崎さんや羽場さんはこういった「罵詈雑言」を浴びせられている。上記の引用の中で批判をされている方は、NGOで名前を顕名で活動をされている方なのだろうが、まさに、こういった人たちに、後追いするする形で、無限の罵詈雑言が無名の無数の人から浴びせられている。
上記の質問の前に、別のジャーナリストが、この集まりを「ロシア寄り」とレッテルを貼っていたが、その人は

  • 2014年のマイダン革命の主役は市民だった。お前たちは、その場にいて、それを見たのか?
  • 俺は、ウクライナでロシア出身の人が、プーチンに疑問をもって悩んでいる人と会った。お前たちは、そういう人を取材したのか?

といった形で、

  • この集まりの人たちを「倫理的」に糾弾する

形で、つまりは、「怒った」わけだ。
しかし、例えば、上記の引用にある疑問に対して、伊勢崎さんは「中立軍」がどういった組織となり、それにどこまでの実績が今まであったのか、という形で説明をされている。つまりこれは、

  • 専門家

が研究し、学会で議論を積み重ねてきた形で返答している。
この「停戦」を訴える人たちは、別に、プーチンが悪くないなんて一言も言っていない。しかし、そういった「正義」の問題があったとしても、「停戦」を優先させることには、人道・平和の立場から、特に日本のような国は訴える理由があるんだ、と言っている。
それは、WW2で悲惨な戦争を止められなかったために、多くの犠牲者を出すことになった、日本に住むものとしての反省もある。そこは、学者や知識人の方なりの熟慮した上での見解を述べられているわけだ。
単純に、「戦争を止め」なければ、犠牲者が増える。多くの人が死ぬし、怪我をする。もしもその「戦争を止め」るということを、お互いの国に向けて言えないのなら、それは、本当にWW2を経験した日本の行う行為なのか、ということには一つの議論があるはずなのだ。
しかし、ツイッターで伊勢崎さんや羽場さんに、毎日のように罵詈雑言を浴びせている人たちはそう考えない。それは、そもそも戦前の日本がそうだったように、

  • 人が死ぬ

問題に対しては、人々はその「怒り」をコントロールできないし、むしろコントロール「してはいけない」と「倫理的」に考えるわけである。
戦前の日本で、日本が「負ける」と言うことは非国民であり、官憲につかまり、逮捕されました。そして、強烈な罵詈雑言を浴びせられました。なぜなら、もしも日本が「負ける」ということになれば、多くの日本人が死ぬと考えられたからです。日本人の多くの人が死ぬことを政府が行っているということは、政府を「犯罪者」として訴えること同値になります。政府とは、

  • 国のために働いている

人たちです。その人たちは、国をよくするために働いているのだから、「感謝」こそすれ、彼らを「犯罪者」と呼んではならないわけです。
ここに「人の生き死に」が関係するとき、その人の「怒り」は、一切のコントロールから解放され、その「罵詈雑言」は、徹底的に行われます。ある意味で、これが

  • いじめ

の正体です。
上記の最初のジャーナリストの人の質問は、俺は現場を取材したんだ、といった「正当化」によって、この会の人たちを上からマウントをとって馬鹿にする目的で行われました。しかし、羽場さんはマイダン革命の場に自分も実際にいたと主張したし、そもそも、ウクライナ内にも、いろいろなことを思って悩んでいるロシア語話者の方はいるわけでしょう。その何人かを知っているからといって、そのジャーナリストの方が会うことになった、ロシアに疑いをもっていたウクライナのロシア語話者の一人の感想を全体に敷衍させることは無理があります。
しかし、いずれにしろ、そのジャーナリストの人は「自分の取材経験」を絶対的な立場として、この会の「ロシア寄りに見える」という人たちを、いろいろと怒りを向けたかったわけでしょう。

と。しかし、この「停戦」は、そもそも「終戦」じゃない。戦争を止めろと言っていない。非常に、テクニカルな政治の場での、学会の場で議論をされるような、そういった問題を話しているわけで、別にこういったジャーナリストがそういったことをちゃんと勉強したわけでもないし、自分のよう知らないことは棚上げにして、

を「代弁者」として行っているような色彩があるわけだ。
そんなことを言ったら、ウクライナの人たちは「怒る」だろう。なんで、そんなことを言うんだ?
ところが、この会の人たちは、「ウクライナの人たちが戦争を止めさせられることを嫌がる」ことを前提に語っていると言っている。つまり、そう思うことは、WW2のときに、日本がポツダム宣言を受諾するまで、

と多くの日本人が思っていただろうと言うことと同じわけである。戦争の当事者は、やりたいと言う。しかし、そういった情況において、ある立場の人たちは、どっちにしろ、

  • お互いの「停戦」

を求めるし、それが唯一、一人でも死ぬ人を減らすことができる方法だと信じているからだ。
結局、「主観的」な側から見るなら、WW2で日本人が最後まで戦争の継続を求めたように、戦争の当事者は「戦争の継続」を求めるし、それが当然だとも言えるわけだ。しかし、「停戦」はそれが「目的」じゃないわけである。なんとかして、死ぬ人の数、怪我をする人の数、特に民間人のそれを減らしたいと考えた上での、苦肉の策としての提案なわけだ。だから、

  • 伊勢崎さんは、常に、敵と味方の両側から恨まれてきた

わけであり、そういった「武装解除」の当事者としての立場から、プロフェッショナルとしてやらなければいけない「仕事」として、考え、研究され、実践されてきたものとして行っているわけだ...。