眠り姫問題

前回、条件付確率の話をしたが、こうした問題は前回も書いたように「分かりにくい」フレームになっている。というのは、この問題文自体が、かなり

  • 主観的

な主張であるかのような文章で書かれるため、それを読んだ人がその文章を、どんな「主観的」な意味として解釈するのかで、つまり、その解釈を「絶対」として議論を進めがちとなるわけで(このことは、実際にその人が、その主観的な文章をそう解釈した、ということでは、端的に事実なわけだが)、その「自明性」と相性がよくないわけである。
しかし、多くの場合、ある「フレーム」によって、こういった問題は理解されるようになってきた。そういった興味深い例として、「眠り姫問題」をとりあげよう。

魔理沙:日曜日にある実験が開始される。今回の被験者は霊夢であるとして聞いてくれ。まず霊夢は一つの薬を飲んで眠らされることになる。
霊夢:薬で眠らされる? 睡眠薬ってことかしら。
魔理沙:まあそんなところなんだが、普通の睡眠薬とはわけが違うぜ。この薬を飲んだものは、その日1日の記憶をすべて忘れてしまう。そして、次に誰かに起こされるまでは絶対に起きない、というとても特殊な薬なんだ。
霊夢:凄い薬ね。記憶を失くして眠り続けるのね。
魔理沙:そう、そして基本的には日曜日に眠らされた霊夢は、最終的に次の水曜日に起こされて、実験は終了となる。
霊夢:日曜から水曜まで眠り続けるだけなの?
魔理沙:いや、もちろんそれだけじゃないね。日曜日に霊夢が寝た後に、実験者側によってコイントスが行われる。このコイントスでもし表が出た場合、霊夢は月曜日に一度だけ起こされて、1つ質問をされたのちに、また同じ薬を飲まされて眠らされる。しかしコイントスでもし裏が出た場合、まずは同じように月曜日に起こされて、1つ質問をされてから薬で眠らされる。そしてさらに火曜日にも起こされて、同様に1つ質問をされて、また薬で眠らされる。つまりコイントスが表だった場合、月曜日に一度起こされて質問され、コイントスが裏だったら、月曜日と火曜日の二度起こされて質問されるってことだな。
霊夢:なるほど、コイントスで途中で起こされる回数が変わるのね。
魔理沙:そう、そして毎回薬を飲んで眠らされるので、霊夢は起こされたときに今が何曜日なのかもわからないし、コイントスで表が出たのか裏が出たのかも知ることができない。
霊夢:なんだか難しいわね。それで、肝心のその起こされたときにされる質問っていうのは一体何なの?
魔理沙:その質問は全て同じもので、「日曜日に行われたコイントスによって表が出た確率はいくらか?」というものだ。
霊夢コイントスで表が出た確率?
魔理沙:まあ言い換えると、「日曜日のコイントスの結果は表と裏どっちだったと思うか?」と聞かれるのと似ているな。
霊夢:コインって表と裏しかないのよね。だったら表と裏どっちだったかなんて、どっちとも出る確率は2分の1なんじゃないの?
魔理沙:まあ単純に考えたらそうなんだが、これはそんな簡単な問題じゃないんだぜ。
霊夢:そうなの?
魔理沙:ああ、実はこの問題に対してはコインが表である確率は、2分の1とする意見と、3分の1とする意見が存在するんだ。
霊夢:3分の1? なんでそうなるの。
魔理沙:この実験で問題になってくるのは、コイントスで表が出た場合と裏が出た場合で、起こされる回数が違うという点だ。もしコイントスで表が出れば月曜日だけ起こされる。しかし裏が出れば、月曜日と火曜日の二回起こされることとなる。
霊夢:そうだったわね。
魔理沙:つまり、霊夢が起こされたときにどんな情況がありうるのかを考えると、次の3つとなる。コイントスで表が出て、月曜日に起こされた場合。コイントスで裏が出て、月曜日に起こされた場合。コイントスで裏が出て、火曜日に起こされた場合。するとこの三通りのうち、起こされたときにコイントスで表が出るのは一通りしかない。
霊夢:そうね、裏が出れば二回起こされるんだからそうなるわよね。
魔理沙:つまり、霊夢が起こされたときに、コイントスの結果が表であった確率は、3分の1になるはずだ、という考え方だ。
霊夢:なるほど、そんなふうにも考えられるのね。
魔理沙:逆にコイントスで表が出た確率を2分の1とする意見の考え方は霊夢と同じような考えだな。実験を行う前に、これから行うコントスで表が出る確率を考えてみると、もちろんその確率は2分の1であるはずだ。そして眠らされて起きた時というのは、霊夢は何も新しい情報を得ているわけではないし、最初に考えていたコイントスの確率が2分の1から変わるわけがないだろう。こんなふうな考え方だな。
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ここで問題設定で使われているテクニックが「記憶喪失」だ(そういう意味では、アニメ「SSSS.GRIDMAN」の響裕太と似ている)。しかし、日曜日に説明された「この実験の内容」については「覚えている」わけである!
私が気になったのは、上記でもあるが「今でもどっちが正しいかで論争が続いている」とされていることだ。それで、ウィキペディアを見ると、確かにそれと似たようなことが書かれている。そして、そもそもこの問題が、2000年のアダム・エルガという哲学者の論文によって掘り起こされた、とされている。
なるほど、今でも論争があるというのは確かなようだが、「哲学者」とあるように、これを議論しているのは数学者じゃなくて、哲学者界隈なのね、ということも分かってくる。
そう思って、ネットで調べてみると、まず、以下の方の記事が見つかった。こちらの方は、ひとまず、この問題を、もう少し整理して、「客観的」に議論できるように整理できるか、かた考えた。

では、質問Aと質問Bのどちらがオリジナルの眠り姫問題に近いかというと・・・
私は、「質問A」の方がオリジナルの眠り姫問題に近いと考えます。
なぜなら、「幼女はコインの表裏と質問Aが行われる回数に関連がある(独立事象ではない)ことを知っている」からです。
確率の用語でいうと「コインが表であること」と「質問Aが行われる回数」は従属の関係にあるため、「質問Aが行われていること」そのものにコインの表裏についての情報が含まれているということです。
つまり、質問Bの際は幼女はコインの表裏について何ら情報を持っていないので確率は 1/2 にしかならないのですが、質問Aの際は幼女はコインの表裏と独立ではない事象についての情報を持っているので確率は 1/3 と判断してもおかしくないと思います。(個人の感想です。)
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というか、そもそも、上記の2000年のアダム・エルガの論文が3分の1を主張する立場だったわけである。上記の引用にあるように、「起こされる」というとき、起こされる私は

  • いつなのか?(月曜なのか火曜なのか)
  • 何回目なのか?

を知らない。分からないということが前提にされている。しかし、そもそもの日曜日の段階で、この「ルール」について、私は聞いて知っている。そのことは、コインの表裏の確率が2分の1であることを「前提」として確率を考えているように、前提として問われている。だとすると、上記の引用の方が言っている「条件付確率」が、

  • 独立じゃない

ということが気になってくる(質問をされることと、コインの裏表は「独立じゃない」)。今、

  • 質問されている

んだから、そのコインの裏表の「情報」がそこには反映されているんだから、2分の1と変わってくる、と考えることには、それなりに理由があるわけだ。
ちなみに上記の記事でも参考にされている、静岡理工科大学の以下の論文では、次のような前置きがある。

信念の度合い或いは主観確率を,ある事象に付与しようとするときに,その事象を記述する文に,信念の度合いを考える主体が参加しているかどうか,そしてどういう経緯でそこに登場し認識主体となったのか.また主体はどういう参照集団に属していると考えて評価しているのか,そのとき注目している参照集団を規定する特徴のカテゴリーは何なのかで信念の度合いが違って来る事が有り得る.
その様な事態を考えるための典型として「眠り姫問題」( the Sleeping Beauty Problem )がある.この問題は,意志決定理論やゲームの理論分野では 1997 年頃から議論されているそうであるが,科学哲学では自己位置づけ問題に関して最近注目されている主題である.宇宙のファイン・チューニング問題における人間原理や,地球文明の存続に関する終末論法,主観確率のBayes改訂と情報取得の関係などの分野に関係するのであるが,哲学の分野では,2000 年のElga の論文からであろう.
https://www.sist.ac.jp/lab/~shinba/sel-flocation.pdfwww.sist.ac.jp

眠り姫問題は,意志決定理論の自己位置づけ問題として出発したが,それ以外の科学哲学の様々な問題の試合場でもある.人間原理,終末論法,コペルニクスの原理,自意識の問題,独我論,確率の解釈問題,ファイン・チューニング,情報とは何か,ベイズ改訂とはなど多岐にわたる.
https://www.sist.ac.jp/lab/~shinba/sel-flocation.pdfwww.sist.ac.jp

結局、前回の「黙示録のパラドックス」と同じわけだ。

  • その事象を記述する文に,信念の度合いを考える主体が参加している

場合に、その

  • 信念の度合い

が「参加している主体」から見たときに、変わってくる場合がある。ゲーデル不完全性定理が、古典的なクレタ人の嘘つきパラドックスと関係があったように、柄谷行人が一時期、しきりに言及していた

  • 自己言及性

の問題はこういった問題を起こすことになるわけで、こちらのこういった問題は、そもそも永井均が「<私>の哲学」で語っていたようなこととはまったく関係なく、これはこれで、興味深いわけである...。

追記:
こういった「立場」の違いは、学会において、どういった影響を与えているのだろうか?

これは完全に余談ですが、主観確率をも容認する立場を一般にベイズ主義といいます。頻度主義者とベイズ主義者の亀裂は歴史的に続いており、両主義の支持者の一部は互いに議論せず共通の学会に参加しないといった状況が続いているそうです(Wikipedia情報)。
mathlog.info

なるほど。