日本の縄文文化

前回、アニメ「サマータイムレンダ」について書いたのだが、そこで思っていたのは、日本の孤島での「方言」についてだった。
もちろん、このアニメは、鬼滅の刃に強く影響を受けた、最近のジャンプ作品につらなる、「残虐」かつ「強い」敵に虐殺される住民が描かれる。そういった意味では、これは、地方文学とは違う。地方という「舞台」を使って、鬼滅の刃的な「テーマ」を描く、「テーマ作品」なのだ。
しかし、たとえそうだったとしても、その地方という「舞台」から垣間見える何かは、なんらかの本質を示している。
それが、

  • 縄文性

だと言ってもいいだろう。
日本の「歴史」は、歪な姿をしている。飛鳥時代奈良時代平安時代の「大和政権」から始まって、現代に至っているわけだが、征夷大将軍として、坂上田村麻呂がやったのは、東北征伐だった。つまり、

だ。大事なことは、少なくとも平安時代くらいまで、日本列島の各地で、

  • 縄文生活

をしていた村落が、たくさんあった。それに対して、大和王権は、そういった「中央の支配に従おうとしない」地方を、<征服>していった歴史があった。
そして、江戸時代後半くらいまでは、少なくとも、孤島であれば、まだ「縄文生活」をしていた人が残っていたのではないか、と言われている。
多くの場合、ここで言う「縄文生活」は、

や、

  • 沖縄文化

と、かなり、ニアリーイコールで考えられることがある。そして、それには一定の根拠があるのだろうが、とにかく、そもそも、日本でだけ使われる「縄文時代」という時代区分の意味について考えてみたい。
世界史の時代区分としては、「旧石器時代」というものがよく言われるが、日本では、その後に縄文時代と呼ばれている。ここでは、確かに、縄文式土器が大量に出土されることになるのだが、なぜ日本で土器が注目されるのかについては、そもそも日本の国土が火山島で酸性のため、骨がほとんど残っていないというのもあるのだろうし、実際に土器の量が多い、というのもある。
問題は、この一万年近く続く、日本列島の歴史なわけだ。
縄文初期は、旧石器時代に、まだ、氷河期の最後ということもあって、日本列島は北海道の樺太辺りが、大陸と続いていた。そして、そこを通って、多くの人が日本列島に、

  • マンモスなどの大型獣を「狩り」の餌として、「追い」ながら、日本に渡って来た

という形になっていた。この人たちが、初期の縄文人を形成している。
時代が進むにつれて、世界は、温暖化に向かう。すると、日本列島は「孤立」に向かったのだろう。大陸から切り離され、人々は日本列島に渡ってこなくなる。しかし、日本列島には、縄文人が生きていた。彼らは、20人くらいの集落を作って生活していた。その頃には、氷河期にいたような、マンモスのような巨大獣はいなくなった。じゃあ、なぜ、彼ら縄文人は日本列島に「孤立」させられて、生きられたのか? それは、温暖化した日本列島は、食料も豊富にとれて、生きるのには世界的に見ても、めずらしいくらいに快適だったわけだ。そして、各村落は、孤立していたわけではなく、さまざまな、人の交流が見られたことが分かっている。各地の特徴ある土器が、いろいろな地域で見つかることから、なんらかの交易や、結婚などによって、いろいろな人の交流があったのだろう。
しかし、ここに日本列島の「独自性」がある。
世界においては、この時代に起きていたのは、「大規模農業」であった。巨大河川の流域で、稲作などの大規模農業を行い、大量の食料を生産するスタイルが広がった。その特徴は、人々の役割分業と、

  • 階級化

であり、それと同時に、

  • 戦争

が平行して見られるようになる。大規模農業を実現するためには、さまざまな作業ごとに分業が進む必要があった。それにともない、「指令役」のような、全体をコントロールする人々の「管理」が一般的になる。もちろん、そこで生産された大規模農業の食料は、倉庫などで保管されるわけだが、それらを保管する、そうういった大規模組織の

  • 管理者

のような役割として「王(おう)」と呼ばれる、唯一絶対の頂点となる人物が登場してくる。
そして、こういった「人類社会」は、ほとんど、現代と同じになる。つまり、人々は「神経症」的になる。それまでの、遊牧民や、焼畑農業的な生き方をしていた人たちには、独立自尊の「自由人」としての、

  • 自律性

があったが、大規模農業の「組織の歯車」として存在を許される存在でしかなくなった人々は、自分が生きることが、完全に、なんらかの力によって「生かされている」ことと区別できなくなることに、生きる理由や意味を失い、悩むようになる。
しかし、たまたま、日本列島は、大陸と「孤立」したこともあって、そういった文化が流入してこなかった。そのため、

  • 一万年の「平和」

が続いた。この「平和」が終わったのが、弥生時代だ。
ここから、大陸、つまり、中国で流行していた、上記の「大規模農業」が流入してくる。
確かに、日本列島は孤立していたが、考えてみれば、大陸と、それほど離れているわけではない。ちょっとした、舟があれば、渡れないことはない。縄文人も、簡単な木をくりぬいた舟で、魚などをとっていたことが分かっていることを考えれば、多少は大陸に渡った人がいたのかもしれない。
というか、縄文時代の後期には、大陸では、かなり大きな船が作られるようになる。これによって、十分に、日本列島まで、人が行くことは可能になった。もちろん、そうはいっても簡単じゃない。全員が来れたわけではなく、多くが、転覆するなどして、日本列島にたどりつくまでに、転覆して死んでしまったのだろうが。
しかし、いずれにしろ、中国大陸から多くの人が渡ってきた。そして、彼らが、大規模農業を日本列島で行った(ちなみにそれは、3000年くらい前で、現在の日本語のルーツとされている人たちだという)。
ちなみに、中国大陸から日本へのもう一回、大きな人の流入が起きたと思われる時期が、日本書紀が書かれた飛鳥時代と考えられている。
弥生時代に大規模農業が栄えた理由としてては、縄文後期の世界的な寒冷化もあったと言われる。そこで、かなり日本列島の人口が減っていた。
ここで私たちは、この一万年の間の縄文文化を、どう考えるのか、だ。これを日本が「たんに遅れていただけ」と考えるか? いや、その一万年の「平和」を、もう一つの人類が達成した

  • 文化

の種類だと考えるか。当り前だが、これだけの時間の間、その「文化」が残ったということは、そこには、なんらかの特徴がある。それは、それなりの独自性なり、それだけの時間を生き残っただけの、文化的な達成がある。
もう一つの観点が、それだけの人類史的な「達成」を行った、縄文人と私たち日本人を、「どういった関係」と考えるのか、だ。先ほども言ったように、縄文文化は、大和政権によって、「滅ぼされ」ていった、と言える。そして、かろうじて残っているのが、アイヌであり、沖縄なのだろう。そして、遺伝子で見ると、だいたい、今の日本人の10から20パーセントの間が、縄文人起源なのだと言われている。そうした場合、私たちは縄文人の「子孫」と考えていいのか? というか、

  • ある程度は、縄文人の「子孫」である

と言うべきはずなのだ。なぜなら、私たちは日本列島に住んでいるのだから。だとしたら、なぜ私たちは、自らを「縄文人」として、それを

  • 誇り

にして生きていないのか、ということが問われるわけだろう。つまり、今の日本人は

  • 自らの「ルーツ」を忘れた民族

だ、ということになる。縄文人としても自らのルーツを忘れて、その文化を引き継ぐことなく、

  • 欧米の哲学

を勉強して、土着の日本文化(=田舎の方言)を馬鹿にしている、「東京人=英語翻訳的標準語人」ばかりになってしまった。
このことは、ある意味で、私たち「文明人」の

  • 病的

な側面について、問い直す意味にもなっている。先ほども言ったように、大規模農業から始まった、世界的な「神経症的な現代人」の病は、そもそも、それ以前の狩猟民族にはなかった。彼らの社会は「平和」だった。(すぐに腐ってしまい、倉庫で保存する定住も行っていなかったために、狩りの食事を全員に分け与えていた)人間同士が「殺し合う」理由がなかった。そして、それゆえに、人々は「独立自尊」して生きていた。彼らは「健康」だった。それが終わったのが、大規模農業社会、つまり、定住社会だった。
そう言った場合、日本の縄文人文化は、確かに、定住はあったかもしれないが、大規模農業は行っておらず、やったとしても小規模の「焼畑的」なものだったわけで、精神として、前者に該当するわけだ。
つまり、縄文時代の一万年の日本列島は、大陸とは違った形で独特の進化を行った。それは、大陸のような「神経症」的な「文明人」的なものではなかったからといって、それが、独自の「文化」と呼べないようなものではなかった。なんらかの意味で、むしろ、現代の文明人が悩む神経症をまぬがれていた、「開放されていた自律人」であった。
まあ、早い話、今ネットでさかんに言われているような、日本の特性(治安がいいとか、その他、いろいろ)は、こういった「縄文」的な、

  • 特性(=田舎の特性)

を「引き継い」でいる、と言えなくもないわけだ...。