吉田伸夫『量子論はなぜわかりにくいのか』

標準的な大学の理学部物理学科の学部生が学ぶ、大学の教科書の「量子力学」の「公理」では、シュレーディンガー方程式という「複素数iを含んだ」方程式で計算する。しかし、これが一体なんなのかは説明されない。普通に考えて、複素数iを含んで方程式が記述されている時点で、私たちが今生きるこの3次元空間にその「対応物」を思い浮かべることはできない。
じゃあ、この方程式はなにに使っているのかというと、その解という確率変数の「期待値」が、対象が「観測」される物理量の「確率」を表している、とされる。
これは、私たちが今まで物理学理論に求めてきた「世界の描像」を直接に教えてくれるものになっていない。なんだか分からないけど、計算すると、実験の観測結果とあうよ、としか言っていないのだ。
どうしてこんなのことになるのか?
当り前だが、こういった「量子力学」の特徴は、理論を実社会に「応用」していくという観点からは必要十分だ。しかも、

  • 単純

なわけで、十分にその能力を満たしている。しかし、そのことと、この世界そのものの「デザイン」を説明するという意味では、完全な「ブラックボックス」となっているため、もはや

  • なにも説明していない

というのと変わらないのだ。
結局、この「量子力学」の「公理」は、なんかおかしいのだ。それは言うまでもなく、「いろいろと用語が矛盾している」というところによく現れている。さまざまな用語を、古典力学から借りてきて、なんとなくそれと似た様相にしたけど、肝心なところがこれらで説明できないから、「そのままにしてある」といった感じだ。説明の「つじつま」があっていない。合っていないけど、そんなことは関係なく、ここの「計算のところ」だけをやっていれば、実験と合った計算結果になる。
実は、こういった「パラドックス」に、昔から一つの解が提示されてきた。それが、この本でも主題としてとりあげられている

だ。このアイデアは、古典論の拡張としても自然なわけで、つまり、量子は電磁力などの電磁場と同じように、

  • 量子場

を、周囲の「空間」に広げている、という考えだ。
しかし、それだけじゃない。場の量子論においては、そもそも「粒子」が否定されている。

場の量子論になると、事情は変わってくる。ヨルダンのアイデアの上に築かれたこの理論は、自律した実体的な粒子の存在が否定され、エネルギー量子が粒子のように振る舞っているとされる。エネルギー量子は、場の振動が定在波を形成した状態と見なすことができるが、定在波が安定に存在するのは相互作用が全くなき場合で、何らかの相互作用があると、エネルギー量子の波が崩れてくる。崩れた波ならば、二つに分かれてスリットを通過し、その後で干渉しあうと考えても、おかしくない。

そう。ここで「始めて」、なぜ二重スリット実験がああなるかが説明可能となるのだw 場の量子論以前の量子力学の公理では、そもそも観測の確率的な結果(統計情報)しか、なにも言えない。それ「以前」がどうなのかを説明していない。
しかし、「当り前」だが、二重スリット実験で波が現れるのは、二つのスリットを通ったのが「波」だからだよね。事実、シュレーディンガー方程式は、「波動方程式」なわけで、それを波じゃないと思っている人はいないw いないんだけど、「量子力学の公理」は、あくまでも観測の統計情報に対してしか「なにかを言わない」となっているわけで(つまりは、壁にあたった縞模様)、発射された光が壁にあたるまでに、どうなっていたのかについては「語らない」わけだw
場の理論は、私たちに

  • 真空

というものについての考え方を変える。一般に、真空とは(空気のない)なにもない場所と考える。しかし、場の理論を考えると、真空の空間にも当然、量子場が広がっている。そういった力が「存在」している場所なんだから、ここで言う「なにもない」というのは、正しくない。
いや。もっと言ってしまうと、不確定性原理が示しているのは、真空においては常に、絶えず、

  • 粒子が生成消滅している

ということが示される。
しかし、その現れる粒子の「寿命」は一瞬だ。当然、エネルギー保存則を破っているが、あまりに一瞬だから、通時的に合計すると保存されている、と解釈される。
上記の引用にもあるように、場の量子論は、粒子という存在を認めない。粒子とは、「波が粒子的な振舞いをするケース」と考える。イメージとしては、静かな水面の一箇所だけ、無限に上下に振幅のある波が現れて「動かない」

  • 定常波

だ。そして、定常波とあるように、この粒子的な振舞いは、

  • 定常振動

を行う波となるわけで、イメージとしては、狭い板にはさまれた空間を考えるといい。そこでは、そもそも、

  • そこに存在しうる波の周波数が空間の狭さゆえに限られている

わけだ。さまざまな周波数が「共存」できない。だから、定常波だけが残っている。
こう考えると二重スリットのイメージもわいてくるだろう。光源から発射された光は、二重スリットを通るまでは波として来て、それぞれをすりぬけた波は壁の直前までは、その二つのスリットをすりぬけてきた波の重ね合わせとして動作している。しかし、この壁の直前において、波は壁と相互作用を行い、ちょうど上記の定常波が現れるケースと同じように、もう一度、

  • 粒子的な定常波的な状態

に戻っているわけである。このことは、もしも二つのスリットで「観測」した場合も同じだ。その場合は、そこでの観測という「干渉行為」によって、

  • 粒子的な定常波的な状態

に戻る。ここで戻ってしまったため、残りの壁までは干渉がなくなり、縞模様にならず、一つの線となる。
その、ここでの「戻る」という場合に、その直前までは波として広がってたわけで、

  • なぜ「そこ」に現れたのか?

ということになるが、その計算が「量子力学の公理」、つまり、シュレーディンガー方程式となるわけだが、いずれにしろ、その波が「重なって濃くなっている」ところほど、現れやすい、という統計的な振舞いとなる。まあ、定常波がどこに残りやすいのか、みたいなことなのだろう。
掲題の本の後半は、いわゆる「量子もつれ=ECR相関」についての世の中の「パラドックス」と考える風潮についても疑念をていしている。

第1の仮定は、物理量が特定の値を取ることで、光子の偏光のような物理的状態が完全に記述されることを意味する。しかし、これまでの章で見てきたように、量子論はそうした理論ではない。量子論には不確定性関係があるが、これは、物理的な状態が経路積分によって表される素元波お重ね合わせであることに由来する。素元波の1つ1つは場の強度がある値を取るものだが、こうした波が重なり合っているため、(振動子におけるおもりの位置が確定しないのと同じように)場の強度は特定の値にはならず、波の波動関数(第4章)で表わされる。

確かに実験において、ベルの不等式を満たさない結果になる。よって、その相関は「隠れた変数」がないことを示している、と言いたくなる。しかし、そもそも「場の量子論」においては、ベルの不等式の「仮定」が成り立っていない。二重スリット実験であれば、二つのスリットを通るのは、粒子的存在ではなく、あくまで波だ。波だから、実体として、二つのスリットをすりぬけた、それぞれの波は干渉が起きている。そういう存在だ。最初から、

  • どっちかしか通らない粒子

として扱っていない。そういう前提で考えれば、その間違った前提のものに割り当てられている「確率」がうまく計算で合わないのは当り前だと言える。まあ、掲題の著者に言わせれば、パラドックスでもなんでもない、というわけだ...。