複雑化する社会に人々は「萎える」

EV自動車がよく火災を起こすとしてニュースになっていたりする。そもそも自動車というのは、マニュアルという資格があって、それについては、基本的な蒸気でピストンを動かすという、原理的に力学的な構造がシンプルな、原始的なものだった。ところが最近の自動車は、自宅のパソコンと変わらない、CPUやメモリ、マザーボードや、グラフィックカードなどが搭載されて、プログラミングされたコードが実行されていて、ちょっとやそっとでは、町の自動車修理工場で見てもらったからって、なんとかなるものじゃなくなっている。私たちがパソコンが故障したときに、メーカーに修理を出すように、そもそも作った人でもない誰かが修理するなんて不可能な製品になっていったわけだ。
そういったように、あらゆる、この社会の構造が、

  • 「それ」を作った人にしか直せない

ものになっていったときに、そもそも、その「社会」を保存していくことの「コスト」って、どうなっているんだ、という疑いがあるわけである。
最近で言えば、マイナ保険証やインボイスなんていうものは、完全にこの国の

  • 生産性

を下げている。インボイス経理が遅くまで残業をしてたり、マイナ保険証が「ぽんこつ」ゆえに病院窓口で認証が通らなかったら、

  • 自費で10割負担

とか言われて、怖がって、誰も所有しようとしない今の現状を見ても、この国の政府であり政策運営者たちが「頭が狂っている」としか思えないような、

  • なにも「生産性」を考えていない

こういった「テクノロジー」の強制をやってきていることに、びっくりするわけである。しかも、その当人の総理大臣は

  • 日本はITが遅れている

とか言いやがる。もう、こういった人たちとは、なにを話しても意志は通じないんだなと、諦めの気持ちにならざるをえないわけだ。
そもそも、この政府が作っているマイナ保険証やインボイスはなんなんだ? もしもマイナ保険証で認証が失敗したがために、

  • 膨大な時間

が、そのために起こった損失の回復に必要だとするなら、こんな馬鹿なものを使わせようとしている国家っていうのは、なんなのか? インボイスという、まったく無駄な番号が「正しいのか」を確認するための作業に莫大な時間を浪費して、そのために起こった損失の回復に必要だとするなら、こんな馬鹿なものを使わせようとしている国家っていうのは、なんなのか?
ようするに、

  • 国家は邪魔なのではないか?

という疑いがでてくるわけである。カフカの小説に『城』というのがあるが、ここにおいて、官僚は基本的に一般の人と会話が成立しない。彼らは彼らで、独特の「秩序」の中で言葉を使っているだけで、それと一般の人との意志疎通は成立しない。
もともと国家とは、ある「目的」のために存在していたのではないかと人々は考えるわけだが、実際に国家が一般の国民と離れて、

  • 暴走

を始めると、その中の「権力争い」が全てを決定して、もはや、一般の国民とは隔絶した、まったく関係ないルールですべてが決定する「魔境」となる。
社会学者のニコラス・ルーマンは、自らの官僚だった頃の経験もあり、国家を「テクノロジー」を発展させることによって、それを「利用」した国家運営が、国家をより

  • 高度

な高みへ、頂きへとつれてってくれることを一種の「ユートピア」と考えた。テクノロジーが、そもそもの国民に対する官僚の少なさゆえの、少人数での大衆の「コントロール」を可能にするのではないかと考えた。しかし、実際に起きることは、ディストピアだったと言うしかないだろう。
テクノロジーの発展は、そもそも

  • 国民自身の国家を「コントロール」しているという「安心感」

を徹底して破壊する。それは、選挙を電子投票にすることのパラドックスを考えても分かる。あらゆる投票システムの、どこかしらに「コンピュータ」を介在させると、そこがブラックボックスとなって、あらゆる不正の温床となる。実際に、そのコンピューターがどんなに事前に「テスト」をされていたとしても、選挙の直前で「パッチ」をあてられたがゆえに、滅茶苦茶な選挙結果に変えられるなんていうことも、(アメリカの選挙では起きているが)多いわけだ。
つい最近、サッカーのプレミアリーグでVARで判定された結果が「なぜか」、誰がどう見ても、「ありえない」判定となって、サッカー協会の会長のような人が、「あのVARの判定は間違っていた」と謝罪を行うことになった。もはや、なにが起きたかは自明だろう。VARの結果を見て結論を下す審判は、最初からどっちかに勝たせたいと思っていて審判をやっているから、どんなに、VARの結果が一方的なものだろうと、

  • 俺には、反対に見える

という詭弁を使って、判定をねじまげたわけだ。さて。この審判は、永久追放されたのだろうか? そうされないどころか、再試合も行われないし、なんの賠償もされていない。
テクノロジーは一見すると社会を便利で、「いい」社会にしてくれると思っている。しかし、他方において、私たちの社会は、さまざまなパーミッションを与えることで成立している。ある人が「あることをやる」と言うとき、それを私たちが承認したのかどうかが重要なことは多くある。新型コロナのワクチンは「任意」だと言う。つまり、あれは打たなくてもいい。しかしそういって、国民全員が打たないと、買った薬のお金が無駄になる。同じように、マイナ保険証は「任意」だと言っているが、これがないとケータイが買えないように、以前の保険証ではダメだと「行政指導」をやっているのが政府だ。インボイスで一千万円以下の免税事業者が課税事業者になるかどうかは「任意」だが、そもそも、消費税が20パーセントになったら、免税事業者などというビジネスモデルが成立するはずがない。インボイスを最初に導入したフランスはこうやって、国内の免税事業者を「撲滅」したわけである。つまり、

  • 事実問題として、国内に免税事業者が「いなくなった」

という形で、事実上のインボイスの「強制」をやったわけねw 国家は国民に「任意」という選択をさせることによって、

  • 国家が「強制」したんじゃないから、国家に責任はない

という立て付けとする(新型コロナワクチンの後遺症も国家に責任がないと言い逃れをする)。しかし、実際には多くの「任意」は、さまざまな、その他の施策を組み合わせて、

  • 事実上の「強制」となるように

法の運用をやってくるわけね。つまり、これは一種の「強制」なわけ。まあ、政府は国民を「マインドコントロール」している、と言ってもいい。
じゃあなぜ企業向けのサービスでは、こういった「テクノロジー」の発展が使われているのか? それは、本当の意味で、その企業のサービスを使うかどうかは消費者個人の選択だからだ。政府と企業のなにが違うのか? 政府のサービスは、

  • 私たちが、この社会で生きているための基本的な「権利」

を実現するためのものであって、当り前だが、

  • 国民全員

に与えられるサービスだ。そうであるがゆえに、そのサービスに不平等があってはならない。だとするなら、本当にこういったものに「テクノロジー」を適用して、その

  • 手続き

を複雑にして、誰からも分からないようにすることが正しいのかは、よく考えなければらない...。