中森明夫『推す力 人生をかけたアイドル論』

掲題の本はまさに、著者の「人生史」のような内容になっている。つまり、アイドルを語ることは「自分を語る」ことと同値なんだ、ということに気付かせてくれる。

で、原田美枝子クンは15歳の高校1年生、公開されたばかりの映画で佐藤祐介と共に主演を務めていた。つまりプロモーションのために『TVジョッキー』に出ていたってわけだ。
映画は『恋は緑の風の中』という(巨匠・家城巳代治監督の遺作となった。主題歌はフォークグループ・アリスが唄う)。中学生男女の幼い恋を描いた日本版『小さな恋のメロディ』的なものらしい。
映画のワンシーンがテレビ画面に映った。少年の夢、幻想の森を薄物の下着のようなベルをなびかせて走る原田美枝子......と、ベールが脱げてパッと裸の宗があらわになる。特大のバストがぷるぷるんと揺れていた。
衝撃が走った。
スタジオに戻ると、頬を赤く染めてうつむく原田美枝子クン......そのベビーフェイスとあまりにも対照的な大きな胸("巨乳"という言葉はまだなく、"ボイン"と呼ばれていた。¬ボインは〜......と月亭可月は『嘆きのボイン』を唄っていた)。その特大のバストの残像が、少年の脳裏にくっきりと焼きついた。ただただ、呆然としていた。

この『TVジョッキー』を見ている引用個所の前の文章でも、いろいろなテレビの番組を、著者は14歳のある日、見ている。
この個所をみるとよく分かるんじゃないだろうか。
「アイドル」という言葉は、さまざまに語られてきた歴史がある。そして、「アイドル」とは何か、つまり、アイドルの「定義」が問題とされたりもした。私はあまりにも通俗的すぎるが、アイドルはひとまずは、

  • 性の商品化

でいいと思っている。それは上記の引用でも、14歳の少年が「大きいおっぱい」に衝撃を受けているんだから、いったん、それでいいんじゃないかと思うわけだ。
しかし、それからが大事だ。つまり、アイドルの「重心」というか、むしろそのポイントは、

  • 商品化

の方にこそあると考えている。まず、この本でも最初の方に取り上げられているが、

  • 天皇は「アイドル」だ

という命題が登場する。それは、今の日本国憲法の定義である「(日本の)象徴」が完全に「アイドル」だからだ。ようするに、日本人は「税金」「公共福祉」によって、「天皇」を「商品」として「買っている=お金を支払っている」。
なぜ日本の治安はいいのかとか考えたとき、明らかに、「天皇御用達」のような準高級店の存在と大衆的な店の併存が日本では可能になっている。ミシュランのような組織が日本の高級店の料理を評価するのも、こういった天皇が「通う」店との関係を考えてみるのもいいのかもしれない。
他方において、もう一度、「アイドル」という言葉を考えてみると、英語のidolなわけだが、これは普通に考えて、

  • 観客

の方のことを言っているだろう。アイドル本人は誰がどう見たって「忙しそう」にしている。そりゃあ、お仕事中なんだから。他方で見ている側は、上記の引用がそうであるように、暇なときでもないと見れない。いや、無理矢理にでも「暇を作って」見るものだ、と言ってもいい。
この本は過去のアイドルたちと著者との自分史との重なりをまとめたものだが、読んだ感想は

  • 生々しい

に尽きているんじゃないかな、と思う。当り前だけど、アイドルたちは一人の人間だ。さまざまな人生を経て今があるわけで、そして、多くの人がそうであるように、残りの人生を生きていく。中には、自殺をしてしまう人もいる。病気で若くして亡くなる人もいる。
こういった対象に対して「コミットメント」するということは、大変に大きなことだ。
例えば、キャバクラで若いお気に入りの女性に通いつめることだってそうだ。もっと言えば、中学、高校と同じクラスであり同学年には、ほんと「美少女」と言ってもいいような、なんとも形容のできない存在っていたものだ。ちょっと近よりづらいけど、当り前にボーイフレンドがいる、みたいな。
そういった観点でこの本を見ると、正直、違和感が大きい。それは、この本が最初から「アイドル論」と言っていることに、大きな違和感がある。
一方に「自分史」と言っておきながら、それが「アイドル論」として語られることが、妙な苛立ちを覚える。まず、この本は当り前のように、AV女優の話がでてこない。つまり、アダルトコンテンツが意図的に排除されている。
ところで、この本には一カ所、ラブライブに言及した個所が現れる。

藤崎の声は、声優が務めた。声優がアイドル的な人気を得ている背景があって、後にゲームやアニメ内で担当したキャラとしてアイドル活動を展開するに至る。アイドルを主題とした人気ゲームに端を発する「『アイドルマスター』や、メディアミックス作品『ラブライブ!』等がその代表作だ。ことに後者の物語内アイドルユニット・μ's (ミューズ)のキャラを演じた声優たちのアイドルグループは大ブレークして、2015年のNHK紅白歌合戦への出演を果たしている。

(この引用の最初の藤崎とは「ときめきメモリアル」というゲームの登場人物の藤崎詩織のことだ。)
この「アイドルの未来」という補章では、この2・5次元の話だけでなく、VTuberのキズナアイについて触れられている。
このPCゲーム、アニメ声優、VTuberの問題がこの本ではあくまでの「未来」の話としてまとめられている。そして、徹底して「アダルトコンテンツ」についての言及を避けている。
私は上記で、この本における「アイドル論」のアイドルは

  • 生々(なまなま)しい

と言った。そう言ったときに考えていたのは、二つの意味がある。

  • 近年のネットを中心とした「アダルトコンテンツ」の氾濫
  • そういった「生々しさ」に距離をおく一つのアプローチとして、漫画・アニメを媒介して、「声優」として関係するスタイル

この前者については今さら言うまでもないだろう。現状、ネット上で海外のサイトにアクセスすることを妨げることはできない。よって必然的に、「無修正」の動画が日本中の誰でも見れるし、当り前になった。
他方において、後者はまた別の意味で「アナーキー」になっている。同人誌においては、アニメキャラは現実であったら犯罪となるようなことが野放図に描かれている。
そして、こういった延長で、アダルト系PCゲームや、アダルト系アニメ、アダルト系漫画の一般流通の商業作品も同レベルで一定の市場規模を形成した。
こういった方向に対して、VTuberは少し違った展開ではあった。彼女たちの主な活動場所は、ユーチューブだった。ここで、個人チャンネルを作成して、彼女たちは基本的に個人でゲーム配信などを行った。
VTuberの特徴はその多くが「匿名」で、顔を隠してやっていることだ。そういう意味では、声優より進んだ個人情報保護に成功している。もっと言うと、そもそもVTuber

  • 社会落第者

と思われるような人でも可能だった。普通に会社に通って、サラリーマンができなそうな、人見知りがすごくて、人と話せないような人でも、ユーチューブの中だったら可能だった。これは、ある種の女性の

  • 開放

を意味していた。ある意味での「アイドル」の「可能性」を広げる形となったと受け取られた。
こうやって眺めてみると、アイドルとはある種の

  • 撤退戦

だったと言えるんじゃないだろうか。昭和のアイドルのような「顔出し」は、その人の人生に干渉しかねないという意味で、非常に難しい側面が増えていったんだと思っている。
そういった延長で、アニメ声優やVTuberのような、より「匿名性=個人情報保護」が強まったスタイルが登場してきた。視聴者が、なんらかの「媒介」をとおして、間接的に消費する、といったスタイルが模索された。
しかしそのことは逆にいうと、大きな「アダルトコンテンツ」の拡大と平行していた、と言えないこともない。この、社会の影の部分として、アダルト・コンテンツは事実として、膨大な量が消費されている。
しかし、私は「間接的」と言ったが、このことは必ずしも距離が遠くなったことを意味しない。例えば、VTuberであれば、彼女たちの長い配信の間には、多くの視聴者から大量のコメントがされて、頻繁に配信者はそれらのコメントを拾って「会話」をやっている。
ここまでの議論をまとめると、アイドルは「商品」でありながら、他方では

  • 社会現象

として理解されてきた。つまり、このアイドル運動が一つの「社会運動」として、なにか社会を動かすんじゃないかと予感されてきた。しかし、そのことが具体的にはどういった未来像につながっていくのかが、まだ見えていないんだと思っている。おそらく、多くの人は、なんらかの

  • 平和

な「回答」が出てくることを待っているんだと思う。他方、今を生きる私たちは、こういったさまざまな問題がありながらも、実践的には、一人行動して、なにかを実行しようとしている。きっとなにかの意味があるはずだと考えて、今までを生きてきて、この道を求める旅はどこかの終着点に着くのだろうか...。