花田先生の描く主人公の「精神年齢の低さ」

ところで、今、映画館ではアニメ映画「数分間のエールを」が上映されている。これを日曜日に見たのだが、こちらの脚本も、花田先生が担当されているということで、それにしても、この人の脚本が多いな、という印象だ。
このアニメについては、パンフレットでその制作経緯の多くが書かれているのだが、あるMVの制作会社の人が今度、アニメ映画を作ることになった、と。そこで、その制作会社の会社名でもある「すべてのコンテンツ制作者たちにエールを送る」ようなメッセージをもった作品にしようというテーマが最初からあったことが説明されている。そういった状態で、アニメ作りが始められたわけだが、その脚本の完成までは、なかなか苦労して時間がかかったことが強調されている。
いつも、MV制作にのめりこんでいる高校生の男の子の主人公は、どんな作品を作ろうか悩んでいた。いろいろと制作をしているけど、どれも満足のいくものが作れていなかった。そんなある日、雨の帰り道に、路上でギター一つをもって、誰も観客のいない中、必死で歌っているある女性に出会う。その姿に感動した主人公が学校に行くと、なぜかその人がいる。どうも、今日から新人の学校の先生になるために赴任してきたらしい。
主人公はその先生に、先生の歌のMVを作らせてくれとお願いする。先生の歌う姿を見て感動したから、と。
先生はそれに対して、ただ「いいよ」とだけ言う。それに嬉しくなった主人公は、自分が聞いた歌の歌詞を読んで、自分なりにその意味を解釈して、MVを作って先生に見せる。すると先生は「このMVを公開しないでくれ」と言う。その理由は、「君のこの歌の解釈が間違っているから」と。つまり、主人公は、これからコンテンツ制作に夢をもってがんばっていくことを主題にした、未来に夢をもっている主人公のMVを作ったのだが、先生に聞いてみると、これは「今まで歌をたくさん作ってきたけど、評価されず、この曲で歌を止めよう」と思った、そういった「あきらめ」のための曲だった、と言う。
うーん。この「挫折をした大人」というのは、ガールズバンドクライの桃香さんに近いモチーフだよな。そして、とうとうこのテーマは、ユーフォの久美子が全国大会のソリを逃すという「挫折」にまで侵蝕してきてしまったw
そしてもう一つ思ったのが、この「作品のテーマを読み違え」て作品を作ってしまう主人公って、そのまま、ユーフォの原作改変を行って、

  • KY

な作品に変えてしまった、花田先生そのものだな、とも思うんだよねw
結局さ。アニメ版のユーフォを見て思うのは、まあ、すべての花田先生の脚本がそうなんだろうけど、主人公たちの

  • 精神年齢が極端に下げられている

ということなんだと思うんだよね。つまり、久美子が、なんにも考えていない馬鹿に変えられている。まあ、幼ないんだよね。これ、高校生じゃない。もっと下の、小学生みたいに描かれている。そういう「子ども」が、子どもゆえの特権で馬鹿なことをやると大人は「まあ子どもだから」と納得する、みたいな作りになっている。おそらく、ユーフォの原作とアニメ版との違和感の一番はここにあるんだと思うんだ。
久美子が、あすかのところに相談に来て、アニオリで、あすかが「公美子ちゃんのいいところは、公美子ちゃんが<わがまま>なところなんだから、本来の公美子ちゃんに戻りなよ」って言って、例の「演説」場面で言うことは、「私の<わがまま>だけど、全国に行きたいんです。だから、みんな私に協力して」しか言わないわけねw そうすると、みんなも「やれやれ、部長も子どもだな」って感じで、子どもならしょうがないっかって感じで、みんなが溜飲を下げる、みたいな雰囲気になる。
上記の映画も、終わり方はそんな感じで、もう一度、主人公は先生にMVを作り直させてくれとお願いして作るんだけど、今度はどっちかというと、

  • 先生がどういう人かは知らないけど、先生には曲を作ることをあきらめてほしくない、だって、先生はきっと、こんな感じで本気で曲作りをやっていたはずだから

といった感じで、先生本人が「やめる」と言っているのに、「やめちゃダメ」ってMVを作っちゃう。まあ、普通だと困ってしまうんだけど、最後は先生も大人だから、主人公に感謝の言葉を残して、握手をして「次はクリエーター同士として会いましょう」という言葉を残して、学校を去っていくところで終わる。
まあ、当然ちゃ当然だと思うかもしれないけど、これ。MV制作会社が作っているだけあって、コンテンツ制作を作ることが

  • 素晴しい

ことだというのを世の中の人に伝えるために作られている。だから、先生が「やめる」って言っていたのを、最後には主人公の「子どもなりの、めちゃくちゃさ」に感化されて、「やっぱりやる」って言わせるまで、作品を終わらせなかった、ということなんだよねw いやいや。先生は疲れているんだから、そっとしておいたら、と思わなくはないんだけど、まあ「子どものやることだからな」で全部終わらせる、その強引さ、腕力だよねw
そう。花田先生は私の印象としては、ラブライブスーパースターの「炎上」のときの悪印象が強いんだけどw、ようするに彼の脚本は

  • 細かな矛盾は<きにしない>

って立場なんだ。どんなに脚本が矛盾していても「それがどうした」で、とにかく、子どもが「暴走」して、その若さゆえの「めちゃくちゃ」を、大人が見て「めでる」タイプの作品を好んで作る人なんだよね。
でもこれって、どこか

  • 保守派

の主張に近いわけ。よく、保守的な文芸評論家が女流作家を褒めるときに「女性は感性を描くのがうまい」とか、女性の「動物性」を無理矢理見つけてきて、わざわざ、そういうのを「めでる」んだけど、当り前だけど、高校生の女性はみんな、モノを考えているわけ。そして、誰もが論理的に話している。でも、男性のそういった保守系の文芸評論家は、女性が論理的に話していると、途端に不機嫌になるんだよねw 女は「感性」だと言って、その「感性」性、「動物」性こそが「芸術」だと思っているから。
こういった形で、保守系の論壇人の特徴は、この世の中の「仕組み」だとか「からくり」だとかに、極端に子どもや女性が関わってこようとすることを

  • 警戒

するわけ。なんとかして、子どもを子どものエリアに、女性を女性のエリアに「囲い込もう」とする。そして、特権的な保守系の論壇人たちが、この社会の「仕組み」や「からくり」を自分たちだけで、決定したがる。ちょうど、60年代の大学紛争で、左翼の学生が政治や世の中に対して、自分たちの意見をぶつけたんだけど、「それ」が許せないんだよね。保守は。だから、なんとしても、そういった「エリア」から、子どもを排除したい。その「徴表」として、

  • 子どもの馬鹿っぽさ

が「めでられる」わけ。子どもが馬鹿ということは、決して、大人たちの「エリア」に関わってこれない存在として、安心できるから。つまり、逆説的に、そういう形で子どもを「褒める」ことが、子どものこの社会で生きていくための「自由」を奪っている、という関係になっているんだと思う...。