リリーを助けた秋田犬

カント哲学は、他方で「無限判断の哲学」と呼ばれる。その意味は、「切断」の哲学である。ソクラテスが知の「限界」について語ったように、カントは現代の知から

を消し去った。哲学と宗教の「切断」、哲学と科学の「切断」。
このことは、もっと敷衍すれば、

  • 不登校>の子どもと、学校との「切断」

と言ってもいいだろう。子どもはある時、今まで自分が通っていた学校が「自分の居場所じゃない」と気付く。それは明確な、その子の意志だ。ここには、簡単には前と後を繋げることを許さない、強力な「切断」が存在する。
ところが、である。
現代哲学を代表する分析哲学は、その起源から、カントに批判的であった。カントは間違っている。これが、分析哲学のドグマであった。カントの「反ホーリズム」は、そもそもの彼らの出自である、キリスト教徒として、なんとしてでも許せない主張であった。彼ら、分析哲学者たちは、カントを倒して、なんとしてでも、カント以前の哲学を復活させることを目指した。

私の見るところでは、適用すべき何らかの「形而上学的独断原理」をもっている場合にのみ、われわれあは、自分の自己関係的論証が事実ではなくむしろある論理的構造をあらわしたと論じることができるであろう。というのも、そのような原理だけが、

  • (A)感覚与件経験はありえない

という結論から

  • (B)すべての経験は空間中の持続する対象に関するものでなければならない

ということ、あるいは

  • (B’)すべての経験は空間中の持続する対象に関するものであるかのような経験でなければならない

ということさえ引き出させることができるであろうから。感覚与件経験の存在を不可能にするのは(B)ないし(B’)が真であるという事実である−−−−これがわかれば、準備はすべて整ったことになるであろう。しかし、カントが行なったのは、(A)を示し、独断的に(B’)へ移り、それから<別の可能性が想像できないような仮象は「経験的実在」と見なされる>という超越論的観念論の一般的原理を用いて(B)へ移ることでしかない。しかし、「演繹」や「論駁」は、(B)の「例外を考えることは原理的に不可能である」ということを示すような論証を、何一つ与えてくれはしない。ブープナーには悪いが、<われわれは原理的に何を考えうるか>ということに制限を課することができるものはない。天にも地にも存在しない。せいぜいわれわれになしうるのは、誰も実際に例外を考えていないということを、示すことだけである。それゆえ、自己関係性を導入しても、「単なる事実的論証」は進展しえないのである。
リチャード・ローティ「超越論的論証・自己関係・プラグマティズム」)

リチャード・ローティはカントの

  • 無限判断的なロジック

が、どうしても許せなかった。今の科学で証明できないことが、なぜ、「はるか未来」においてまで証明できないことを意味するのか? カントはたんなる「独断論」であって、「はるか未来」において、神の存在は証明される。よって、どうせカントは

  • 間違っている

んだから、カントに意味はない。リチャード・ローティはそもそものカントが言おうとしている「無限判断」の問題に一切関心がない。功利主義的に、発見されるものが「知」であって、それ以外に知などありえない。つまり、この世界中の知は、

なんだ、と言うわけである。そして、もしもあらゆるものが一つだというなら、それは神の似姿しかありえない、と。
ところで、以下の動画は海外の家族が、たまたま、秋田犬の子犬を飼うことになって体験した話ということだが、とても感動的かつ考えさせられる内容だ。

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リリーは幼い頃から、子犬の秋田犬のマヤと仲良く育ってきた。しかし、秋田犬が次第に大きくなるにつれて、力も強くなり、扱いに困り始めていた。たまたま友達を家に連れてきたとき、その友達に秋田犬を見せてやろうと思っていたが、秋田犬は興奮してリリーに飛びついたりして、その活発な姿に怖くなって、その友達は泣いてしまった。そういった経験からリリーは「マヤなんて大嫌い」と言って、近寄ろうともせず、ずっと無視して喧嘩していた。
そういったある日、マヤがめずらしく、なにかを威嚇しているのに、リリーの母親は気付く。そしてリリーの方を見ると、なんとそこには体の大きな熊が、もうすぐそこまでリリーに近づこうとしていたのを発見する。すぐにリリーもその熊を見て、たまらず悲鳴をあげてしまう。すると、マヤは熊とリリーの間に立って、大きな声で熊に向かて吠え始めた。熊も犬の剣幕に驚いたのか、一目散に逃げ出した。
リリーは「嫌いって言ってごめんなさい」と言って、いつまでもマヤに抱き付いて離れなかった。
まあ、日本の田舎にいれば、ときどき熊が出没することは誰だって知っている。そんな日本で、なんで日本人が生きてこれたのかといえば、日本人が犬と共生してきたからだ。上記の話が興味深いのは、リリーは小さい頃はずっと仲良く世話をしていたのに、ある事件をきっかけに「マヤが嫌い」と言って、近寄らず、無視をして、つまり

  • いじめ

ていたわけだ。しかし、マヤはそれを寂しいと思いながらも、リリーの近くに常に待機して、リリーという主人がピンチのときには命をなげうって戦ったわけだ。
つまり、だ。そもそも、リリーも、その両親も、なんでマヤがここにいるのかを知らなかったのだ!
マヤが、その秋田犬が、「ここ」にいたのは、はるか太古の昔から、人間はそうやって生きてきたからだ。つまり、こういった「役割」をもって、その犬は生まれてきて、ここにいた。これを知っていたのは、リリーでもその両親でもない。秋田犬の祖先を育てていた太古の昔の人間の「知」なのだ...。