東浩紀先生は、彼の昔のツイッターでの発言を見直してもらえると分かるが、彼は
- 民主主義を否定している
わけだ。そしてこれを彼は、本のタイトルで『一般意志2.0』と名付けた。この一般意志2.0の正体は本を見てもらえばすぐに分かると思うが、最近の言葉で一言で言えば、
- AI
だw 東浩紀先生は「AIに任せれば、世界中の人が<ハッピー>になる」のだから、
- 人民は今すぐに、民主主義を止めて、<AI独裁>を実現しよう!
と呼びかけたw そしてその彼の実践方法が、change.orgで呼び掛けた「選挙に行かない」運動だった。彼は本気で、日本中の人に選挙に行くことを止めることを呼び掛け、賛同を求めた。しかし当然であるが、無党派層が選挙に行かなければ、組織票をもった自民党が勝利する。今回の選挙はそうならなかったから、与党が過半数割れをしたわけで
- 日本中の人が、東浩紀の詐欺に騙されないで<良かった>
と私は、ほっと心をなでおろしているわけだ。まあ、ここからも明らかであろう。東浩紀とは、たんなる「統一教会」に支援をされたインテリであって、彼は絶対に統一教会に逆らった行動がとれないw これがなぜ、東浩紀の政治発言が、誰も聞いていないだけでなく、実際に聞く価値のない、時間の無駄であるのかを証明している。
例えば、東浩紀であり、宮台真司であり、稲葉振一郎でありが共通するのが、哲学系、社会学系の「文系」の理論派の学者になったというだけでなく、
- 高校の「進学校」や「進学予備校」から、東大に入った(自分のことを)「エリート」(だと思っている勘違い野郎)
だということだろう。そして、そろいもそろって、この3人は
- 柄谷行人に罵詈雑言を浴びせ、罵ってきた
- ロシアや中国などの「左翼」を<敵>認定して、左翼批判をライフワークとしている
というわけだw まあ、ようするに「統一教会」ってわけ。事実、歴史的な経緯もあって、台湾やウクライナには、大量の「統一教会」の信者がいて、当たり前だけれど、東浩紀のチェルノブイリへの観光ツアーには、統一教会系の人材がサポートしているw それが、「反共」であり「勝共連合」の人脈なわけで、つまり、東浩紀は絶対に統一教会に批判的なことが言えない
- なさけないw
「ゲンロン」人だってわけ。だったら、筆を折ればいいのにね。
まあ、早い話がこの3人は「国家」に極端なロマンティシズムをもっている。国家は
- エリート
が運営しなければならない。間違っても、大衆が関わってはならない。民主主義なんて、絶対にあってはならない。もしもそんなことになったら、僕たち「エリート」が大衆に排除されてしまう。
彼ら「エリート高校、エリート予備校の優等生」は、東大に入って、当然日本は自分たちが操るんだと思っている。なぜなら、
- 日本で一番、高校のペーパーテストの点数が上
だからw しかし、彼らにはこの異常さが分からない。「僕はエリートだから、日本を好きに操っていい」と、本気で思っているのだ。実際に、過去の東浩紀のツイッターの発言をたどると、山本太郎への罵詈雑言がすごいことになっている。なんと、山本太郎は「中卒」だから、彼が権力をもったら
- 不安
だから、絶対にれいわ新撰組を許さないんだってさw
しかし、ね。多くの人は思うんじゃないか。いっくらエリート様が「僕は偉い」ってふんぞりかえっても、だれも見向きもしなかったら、いい加減、あきらめるんじゃないかって。
じゃあ、なぜ彼らはそうならないのか? それが、「国家」である。もっと言えば、「国家への奇妙な幻想(偏愛)」なのだw
彼らエリートにとって、
- 国家は絶対に間違えない
と思っている。信じている。そして、エリートが国家の宝であることは間違いないんだから、絶対に
- 国家は、もっている全てのリソースを使って「僕を守ってくれる」(なぜなら、僕はエリートだから、国家にとっての最大の価値のある宝なのだから)
と。
しかし、これだけじゃない。東浩紀先生から言わせれば、そもそも私たちが「自由」であるということは、つまりは全ての日本人が
- ひきこもり=孤独
でなければならない(当為)とセットになっている、というのが、彼の「倫理学」なのだ。
ルソーは代議制を否定しただけではない。政党政治を否定しただけでもない。彼は、すべての市民が一堂に会し、全員がただ自分の意志を表明するだけで、いかなる意見調整もなしにただちに一般意志が立ち上がる、そのような特殊な状況を夢見ていた。というよりも、ルソーは、そのような状況が実現しなけばひとは決して「自由」にはなれないと考えていた。
(前略)晩年のエッセイ『孤独な散歩者の夢想』では、彼はついにつぎのように書き留める。「この世にはもう隣人も同類も兄弟もない。私は地球の上にいながら、見も知らぬ惑星にいるようなもので、以前住んでいた別の惑星から落ちてきたような気持である」。
つまりルソーは、一般に政治思想家や社会思想家といった言葉で想像されるものとはかなり懸け離れた、現代風に言えばじつに「オタク」くさい性格の書き手だったのである。彼は、人間嫌いで、ひきこもりで、ロマンティックで繊細で、いささか被害妄想気味で、そして楽譜を写したり恋愛小説を書いたりして生活をしていた。
一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル (講談社文庫 あ 132-1)
東浩紀の政治学は上記にあるように、一般的な「エリート」とも少し違っているわけである。彼は、民主主義を「否定」している。それを彼は「民主主義2.0」と呼ぼうと思って、最初はそういう名前の本にしようとしていたが、出版する直前に「一般意志2.0」に変えたんだそうだ。しかし変えなかったとしたら、より彼の意図が明確だったんじゃないか。そう。彼は
- 「民主主義の否定」を「民主主義2.0」という名前で、つまり「ニセ民主主義」を民主主義だと、大衆を「だまそう」とした
ということが。そもそも彼は「詐欺師」である。彼の本は、すみからすみまで、嘘で埋めつくされている。彼の本を読むと、心が汚れる。日本人としての、子どもの頃から守ってきた正義の心が、サイコパスの東浩紀の本を読むことで、サイコパスにマインドコントロールされてしまう。危ナイ危険、なのだ。
上記の引用にあるように、東浩紀先生にとって、まず「政党」は絶対に存在してはならない。なぜなら、人々が徒党を組むと、
- 国家に反逆してしまう
からだw 人が集まって徒党を組むということは、個人と国家との「信頼関係」をそれに優先する、ということである。ということは、個人は国家より大事なものがある、ということになってしまう。それでは、
- 国家に奉仕する
エリートの「役割」というか
- 存在意義
が否定されるのと変わらなくなる。東浩紀先生にとっての個人の関係を分かりやすく図式化すると、以下のようになる:
- 国家 <--> 個人A
- 国家 <--> 個人B
- 国家 <--> 個人C
- 国家 <--> 個人D
この関係を見て、すぐに気付くように、個人Aから個人Dのそれぞれは、
- 完全に矢印で結ばれていない
わけであるw つまり、各個人とは、全員が
- 「ひきこもり」で、自分の部屋から一歩も出ない
のだ。これが「エリート」なんだ、と東浩紀先生は言うわけである。エリートは部屋に閉じ込もり、部屋から一歩も出ない。なぜなら、部屋から一歩でも出るやいなや、他人と出会ってしまい、その人との関係が生まれてしまい、
- 国家とだけの惟一の繋がり
が崩れて、国家への反逆へと結果してしまうからだ。
おそらく、東浩紀にとっての「現実」であり「自明性」とは、日本の明治以降に作られた、帝国日本の頃に完成した「社会秩序」の自明性で考えている。例えば、明治革命政権が、水戸学派というイデオローグによって完成されたことから分かるように、徹底して
をベースにしていた。そもそも儒教的な価値観を日本に復興することが、「維新」であり、つまりは中興の祖、太古の昔の古代天皇を中心とした律令国家の「再現」と考えられた。つまり、最も儒教として「完成」していることが、天皇制の目指すものであったし、そのことを水戸学派の誰一人として疑っていなかった。
儒教における四書五経に「大学」という小冊子がある。ここで、国家とはなんなのかが定義される。国家は以下の二つの「類比」によって、その全体像が説明される。
- 国家 <--> 家(国王 <--> 家長)
- 家 <--> 家族のそれぞれのメンバー(個人)(家長 <--> 家族のそれぞれのメンバー(個人))
国家とは何か? そもそも国王とはなにか? 一般の国民にとって、国家や国王は
- 遠い存在
であり、そもそも個人の人生にとって「関係」のない人たちなはずだ。つまり、なんのイメージもわかない、なんのコミットメントも発生していない存在なのだ。しかし、儒教はそれではダメだ、と考えた。国民に、国家について「わがこと化」をさせなければならない、と考えた。そこで用意されたのが
- 家族
だった。儒教は、国家とは「私たちの日常における<家族>と同じ」なんだよ、って大衆がイメージをしやすいように
- アナロジー
によって説明をしたのだ。そしてこれが、何千年と続き、多くの儒学者たちによって衒学的な膨大な研究を生み出した。
そう。ここで、なぜ東浩紀先生が観光客の哲学で「家族」という言葉を使い始めたのかの理由である。
しかしここで、注意をしてほしいわけだ。東浩紀はそもそも長男だ。つまり彼は、上記の儒教の議論から分かるように、
- 家長(長男)しか、<人間>だと思っていない
わけだ。まず、家長は上記にあるように「ひきこもり」をしなければならない。しかし、ひきこもりをするためには、国家に自分の福祉をやってもらわなければ無理だ。部屋の中で飢えて死んでしまう。だから、本当は国家が「僕のヒーロー」として、僕を困らせる怪獣を倒すために戦ってくれるように、僕の回りの衣食住をなんとかしてもらいたいんだけど、国家が日本中の個人にいちいち関わることは
- 無理
だから、その代わりを「家族」が面倒をみるわけである。そう。そもそも、東浩紀先生にとって、市民は平等じゃないのだ。彼は明治の家父長制で考えていて、彼の家族概念は最初から「家長独裁」が前提になっている。
ただしここで注意が必要だ。フェミニズムはよく家父長制批判をするときに、それを「男vs女」と描く。しかしこれは正確じゃない。実際にはそれは、
- 家長vsそれ以外の家族のメンバー
なのだ。だから、長男がなんらかの理由で家長になれないときは、次男が家長になるし、場合によっては(男の子どもにめぐまれなかった場合などには)長女が家長になることもある。いずれにしろ、東浩紀は人間の「平等」など、一度も考えたことがないのだ。
ではなぜ、明治以降の家父長制がそうしたのかだが、早い話、財産の分散を嫌がったからだろう。だから、長男の全取りが制度として、日本社会に今の「常識」として定着した。そして、基本的には東浩紀の考える社会システムとは、こういった
- 今の日本社会の自明性
を絶対に否定しない。こういった「現実」の上で、なんらかのマイナーチェンジを考える以上のことはしない。
東浩紀の言う「家族」は、そもそも私たちが思いうかべるような家族じゃない。そもそも、ルソー的な市民は「ひきこもり」だというんだから、まったく違う。東浩紀の家族の間には、そもそも
- 愛があってはならない
のだw なぜなら、家族の間に愛があるということは、それはエリートの「国家への殉教=奉仕」を邪魔させるからだ。そもそも家長は、国家に奉仕をするのであって、家族に奉仕をするのではない。家族は、家長に奉仕をするが、家長は国家に奉仕をするのだ。ようするに、東浩紀は惟一
- 天皇への愛
だけを認めているわけであるw 明治の帝国日本軍の士官学校のエリート学生は、毎日、朝起きたら、天皇の御真影に向かって土下座を行い、それを夜寝るときまで続け、それを毎日行った。この
- 土下座
を最も狂熱的に、最も「長時間」やった生徒が、その忠誠心を認められて、上官へと進学した。これが、日本の「エリート」の正体である。
では、家族におけるセックス、結婚した男女の生殖行為はなんなんだ、と思うかもしれない。これも完全な
である。家長は国家以外への偏執的な愛は認められない。つまりそれは、「天皇への愛」へと変わる。確かに家長は、フィアンセとセックスをする。しかしそれは、フィアンセに異性としての愛情があるからではなく、ホモセクシャルな天皇の写真を見ながら、オナニーを妻の体を(まるでダッチワイフのように)使ってするオナニーでしかないことを意味する。
家長でありエリートは、ただただひたすら、天皇への愛を毎日、頭の中で繰り返す。それは、そもそもそれだけが許される「愛」であるがゆえに、そう行動するしかないわけである。
しかし、考えてみてほしい。江戸時代の武士は、自分の主人として、外様大名がいたし、彼らがはたして一度でも、生きている間に天皇のことを考えたことがあっただろうか? 江戸の武士にとって、主人とは地方の権力者のことであって、そのことを一度として疑ったことがなかった。彼らの忠誠の先は、地方の権力者であり、天皇ではなかった。つまり、逆説的だが、江戸時代は東浩紀がどんなに「党派」性を否定しようとも、本質的に党派的な国民だったわけだw
(この日本の伝統を破壊したのが水戸学派であって、彼らのクーデターによって日本の政治システムは破壊されて今にまで至っている.)
ここまで話してきて、素朴に多くの人は思っているだろう。東浩紀にとって大事なのはその「エリート」の、国家への徹底的な「奉仕」である。国家の存続はこのエリートの優秀さが担保する。そして、これに反転する形で、
- なんとしても、大衆に政治に関与させない
ことが、なによりも重要視される。この極端なエリート独裁は、言うまでもなく、誰にも理解されないw
ということは、東浩紀は一定の妥協のようなことをやらざるをえない、ということを意味する。上記で、ルソーであり東浩紀先生は、一切の「繋がり」を否定した。しかし、実際の日本社会はそういうわけにはいかない。そこで、東浩紀はどういった言葉で、この状況を説明したのかというとそれが
- 弱いつながり
という、もう一つの彼の主著のタイトルだったわけだ(つまり、一般の意味での繋がりを「強い繋がり」と呼び直すことで、あたかも二つの繋がりがあるのように偽装した)。しかし、実際にはこの「弱いつながり」も、民主主義2.0が「反民主主義」と同値だったように、「弱いつながり」とは
- 反繋がり=引き込もり
であったことは言うまでもない。例えば彼の主著である観光客の哲学における観光は、一見すると、人と人の「繋がり」について語っているように読み取れそうだと思うだろう。しかし実際に読んでいくと、これもまったくの
- 反繋がり=引き込もり
であることは自明だろう。東浩紀先生の観光の強調は、そもそも彼らが労働ビザで日本に来たり、移民や難民で日本で残りの半生を暮らすといったことをまったく意味していない。この
- 異常さ
にこそ、彼の観光論の本質がある。つまり、観光客は確かに海外に行くが、驚くべきことに、彼ら観光客は
- ずっとホテルで、ひきこもっている
のだw もはや、なんで海外に行ったのかもさっぱり分からないw 当たり前だが、こんなものが「観光」のわけがないw つまり、これもいつものように、東浩紀のいつものレトリックで、
- 東浩紀先生の観光=反観光
であって、観光に関わっている人が絶対に読んではいけない本なのだ...。