佐藤文隆『量子力学は世界を記述できるか』

よく、SF系の人たちって、量子力学の「コペンハーゲン解釈」に対する

  • オールタナティブ

としての「多世界解釈」を、まるで「当たり前」のように語る人が多いような印象を受けるのだが、これって、なんの「慣習」なんだろう、と時々、どうしても思ってしまう。
私が素朴に思うことは、彼らがここで、「コペンハーゲン解釈ではなく多世界解釈」とするときの、その「推論」過程に対する疑問なのだ。これがたんに、なんらかの「党派的」な立場表明の意味で、自分は「キリスト教徒」だ、と言うくらいの意味で使われているのであれば、まあ、しょうがないのかな、となるわけであるが、そうであると言うには、あまりにも「自信たっぷり」に語られるので、こちらが戸惑ってしまう、という「からくり」なわけである。
例えば、掲題の著者は、「多世界解釈」について、次のように述べている。

具体的過程はさておき収縮の最大の特徴は可逆的でないことだ。基本物理作用が可逆(ユニタリー変換)であるべきとするなら、波動関数は元に戻せる情報を含んだものに変化すべきである。、隠れた無数の世界があるというオドロオドロしたエヴェレの世界観にはついていけないが、重なり合った波動関数を可逆的に(重なり合ったまま)操作可能であることに目を開かせる功績はあった。

また、以前に、このブログで紹介した、テグマークの例のアンケートについて、掲題の著者は以下のように評価している。

ここにテグマークというアメリカの理論物理学者が、量子力学の基礎に関係した国際会議の席で「ほんとうは今の量子力学をどう考えているのですか?」という趣旨のアンケート調査を行った。その結果を前頁に紹介する。彼はやはりホイラーの元学生で、歯切れのいい宇宙論などのポピュラー解説をよく書いている中堅の研究者である。

何回も述べたことだが、こういう研究は長い間あるいは今でも、物理学の世界では実にマイナーな世界である。研究課題の意味からいうと第一級の課題のように見えるが、「ボーア・アインシュタイン論争」などを経て、いまはそんな問題は存在しないと考える物理学者が圧倒的多数だからである。大半の研究者には「存在もしない課題」に見えるこういうマイナーな世界では、勝手なことを言っても誰もリアクションをしない。目にも付かないし、目に入っても「勝手に吠えている」と見られるだけだ。だから、みんなが認めるような学界としての「動向」や「経過」が生まれているわけではない。

結局のところ、掲題の著者の「多世界解釈」についての評価としては、どういうものなのかについては、以下のように、まとめられている。

実在論多世界解釈にも二つの残された問題がある。一つはマクロの重なりの意味であり、二つには確率解釈をうまく持ち込めないことである。「あれか? これか?」が未定であるとは、同一世界での「多可能性」が前提である。舞台が一つだから、多可能性としての多世界の確率概念が登場できるのである。ところが、多世界解釈では各可能性は別世界のことで比較は出来ない。素直に考えると確率解釈は出てこない。多世界解釈での確率の導入にはもうひとひねり必要である。

こういった形であれ、専門家が一方で「多世界解釈」を今でも、ある意味での

  • トンデモ

扱いをしている中で、いわゆる「SF好き」の人たちが、むしろ、「コペンハーゲン解釈」を嘲笑し、「多世界解釈」に必要以上にコミットメントしていく状況には、おそらく、今でも、

の影響が大きいのだろうと思われる。つまり、この「アインシュタイン問題」が今だに、なんらかの意味で「解決」していないんじゃないのか、といった「直観」が、ここに大きく関係している。

いわゆるEPR論文(一九三五年)でアインシュタインらが批判した「多体間の相関が相対論の原則(光速度限界)を担保していない(そのことに触れていない)から未完成」というポイントを指摘した。その後、量子力学と相対論の関係はどう展開したかを駆け足で記述しておく。ディラック方程式(一九二八年)も量子力学の相対論化のつまりであったが、あれは場(オペレータ)の方程式であって状態ベクトル波動関数)の方程式でない。、経路積分量子化ファインマンの学位論文(一九四八年)もこの問題を動機としていた。結局、相対論的粒子、多体粒子系の量子力学の理論は今も存在しない。物理学のメインロードでは素粒子の理論は("粒子"ではなく)"場"の量子論(一九二八年)という局所作用の連続体理論に移行してこの問題を回避した。しかし一九六〇年代末までの大方の見解では「連続体は無限大の矛盾を持ち込むから完成品ではない」と難題を抱えていた。ところが、「繰り込み可能性」を原理の位置に高めて相互作用理論は「すべてOK」という形で一九七〇年代末に決着した。「標準理論」の完成である。こうして、量子力学改造の野望は打ち止めとなった。アインシュタインの不平不満は完全に葬り去られたように思われる(その後の重力(時空)の量子化をめぐる試みは再び暗礁に乗り上げているが、この「本流」の課題と本稿で取り上げる「ねじれとは別種の課題である。ただし「この課題」の落としどころは今だ不明であり、「関係ある」という主張もある)。

しかしね。
私は、それ以上に「違和感」を思うんですよね。つまり、ここで言う

  • 実在

という言葉に。

一般相対論によると時空も物理実体である。エネルギーなどを持つという意味で物理的実体といっている。また重力を含む力の統一理論を目指すと時空はより明確な物体的実体となる。すなわち通常の物質(素粒子)と時空とは同質の存在となる。外見上の違いは量的な差に由来すると考えられている。

そもそも、さ。何が「実在」なんだろうね。「素粒子」は「存在」しているんだろうか? 存在しているとしても、「それ」は、言ってみれば

としてしか、姿を現さない。つまりこれって、なんらかの意味での、「数字の羅列」ですよ。ようするに、それって

  • 情報

じゃないですか! まさに、テグマークが言ったような意味で、「数学的な実在」だということになるわけで、それってなんなんだろうね、といった皮肉しか思い浮ばない。そもそも、一般相対論では、

  • 時空

は、「エネルギー」だ、という意味で、物理的実体だということになっているし、そういう場合の、ここで言おうとしているところの「実在」ってなんなんだろうね。
こういった、一般相対論が示す世界観は、もう、ほとんど、「ライプニッツ」が言っていたような意味での「世界」なんじゃないだろうか。しかし、そうした場合に、ここで言う「実在」って、一体、なんのことを言いたいんだろうね。

しかし、現在の実在論の多数派はこの最左翼ではなく、コペンハーゲン解釈が含む「収縮」のアドホックな導入の瑕疵を正すというスタンスである。観測をシュレーディンガー方程式の過程の中に取り込む試みである。観測を観測主体の認知と関連付けるのではなく測定という古典物理過程との関連を明らかにしようとするのもである。この点での大きな前進は古典化する測定状況では測定するもののコントロール下にない環境からの擾乱に晒されているためにΨのコヒーレンス(可干渉性)が短時間に失われることの認識であった。このデコヒーレンスを引き起こす「環境」は、図4に列記したように、問題に応じて階層性を持って幅広く考える必要がある。「真に閉じた系」はあるのかという物質世界に関する問題を提起する。

ここで少しだけ、注意をしておくと、ようするに「Ψ(ぷさい)」と呼ばれる、確率収縮の問題が結局「なんなのか」については、コペンハーゲン解釈は、なんの答えも与えないし、今だに、これについては、謎なわけですよ。謎だけれど、「計算」はできる。じゃあ、なんか適当に、こいつに「解釈」をのっければ、大抵のことは解決するかっていうと、そう簡単に、私たちの浅慮を寄せつけない。というか、ようするに、大事なことは、これが「なにか」について、簡単に答えようとしない、ということなのだ。
そう言うと「神秘主義」のように聞こえるかもしれないが、そうじゃない。実際に、これがなにかを決定する「理論」が誕生していないのだから、私たちが分からないのは当然なのだ。
量子力学が私たちに教えてくれるのは、世界の「操作」であって、その世界の「モデル=存在」ではない。なぜ前者でしかなく、後者でないのかは、そもそも私たちにとっての「知識」がどういうものであるのかに関係している。つまり、逆に問えばいい。なぜ前者では満足できなく、後者でなければならないと

  • あなたは思うのか?

と。どんな知識も、必ず、この「前者」の段階を通って、場合によっては「後者」が発見される。しかし、だからといって、なぜ「前者」が分かったからといって、「後者」の

  • 存在

が要請されなければならないのか? というのは、そもそも「後者」がなくても

  • 困らない

という関係がある、という決定的な意味において、常に、存在論に対して認識論が「先行」してきたことに関係している。そして、そのようにこの意味を考えたとき、そもそも「存在論」とはなんなのか、ということがよく分からなくなってくるわけである。ようするに、「存在論」とは

  • 神の視点

である。この世界が「法則」によって「決定」されているということは、神の視点からは、この世界が「時間的に可逆」になっていることを意味する。実際に、物理学の「ミクロ」の方程式は全て、「時間的に可逆」つまり、時計を逆回りに回転させた「動作」を

  • 記述

している。ところが、この「神の視点」に反している物理法則が二つある。それが、「熱力学第二法則」という、統計力学的な「マクロ」法則であり、量子力学における「Ψ(ぷさい)」の確率収縮である。私たちは、あまりに

  • 神の視点

を「自明」のものだと思っている。だから、「実在」という言葉を、ほとんど「神」と同義語として使う。「実在」とは、

  • 神の存在証明

のことを意味する。「実在」だから、「神は存在する」のであって、神が存在することを証明するためには、「実在」でなければだめなのだ。しかし、

  • 神の視点

が「時間的に可逆」であることと、ほとんど同値だと考えたとき、上記の二つの物理世界における「時間の非可逆性」は異様である。おそらくここに、「多世界解釈」が、いわゆる「SF畑」の人たちに人気である理由があるのであろう。ようするに、「多世界解釈」は、もう一度、物理学を、

の範疇に、私たちを「帰して」くれるような幻想を見させてくれる、という「夢」があるんじゃないのか。つまり、もう一度、神の「存在論」に<安心>させてくれる、というわけである...。

量子力学は世界を記述できるか

量子力学は世界を記述できるか

アニメ「刀使ノ巫女」の第一話

アニメ「刀使ノ巫女」の第一話は、よくある話といえばそうだが、めずらしく、第一話が「おもしろい」アニメということでは、エヴァンゲリオンのテレビ版が「前半」の綾波がメインのストーリーが「おもしろかった」ことと似ているということでは、両方とも、ある種の

となっている、ということは言えるのかもしれない。
アニメ「刀使ノ巫女」の第一話で、中学生、高校生を中心とした武芸大会の決勝戦だけ、折神家の当主の紫(しおり)様の前での御前試合となる。しかし、そのことは紫様と直接の接触を一般人が行おうとするなら、この「決勝」にまで辿り着かなければならないことを意味しているわけで、十条姫和(じゅうじょうひより)が紫様を

  • 暗殺

するには、その瞬間しかなかった。しかし、その後の展開は、その決勝の対戦相手だった、主人公の衛藤可奈美(えとうかなみ)が、「なぜか」姫和を助けること、しかも、その逃走劇を半ば、紫様が「後を追うな」と命令したことで、なんとも謎めいた展開の中で、続いていくわけである。
なぜ姫和が紫様を殺そうとしたのか。それは、可奈美が姫和を助けようとした理由とも関係しているわけで、可奈美はその姫和が紫様に切りかかった瞬間に、紫様が「ノロ」にとりつかれていることを見破ったからであったし、姫和は母の死ぬ前での姫和に隠れて行っていた行動などから、そのことを以前から知っていたから、彼女はこのことを

  • 母の仇討ち

として行っていることが特徴だ。管理社会の「トップ」と、その管理社会が「悪」と名指して戦っている「トップ」が裏で繋がっているなんていうのは、この世の「悪」の定番であるが、この世界もそういった光景を示している。
しかし、この姫和「テロ」問題には、もう少し複雑なコンテクストが関わっている。それは、話が進むにつれてはっきりしてくるわけだが、その一つ目が彼女たちの二人の母親が、20年前の、相模湾岸大災厄に中心的に関わっていたし、まさに、この二人の活躍によって、その災厄は沈められたわけでありながら、その事実は公には伏せられた、といった「いきさつ」がある。
このことは、なぜ姫和「テロ」を、回りの大人たちが、やけに「冷静」なのかを、説明している形になっている。つまり、姫和は、その20年前の、その場所で、実際には何が起きたのかを詳しくは知らない。だれからも教えてもらっていない。だから、彼女がこのような行動をするのは、ある意味で

  • 当然

だ、といった回りの受け止め方がある。
この作品のいまひとつ、ものたりない印象を受けてしまうところとして、姫和と母との具体的な「やりとり」が描かれることがなかったために、なぜ姫和が「テロ」を

  • 母の仇討ち

として、なぜ、そこまで行おうとしたのかを、あまり丁寧に描けなかったことにあるように思われる。そしてそのことは、最終話での、隠世(かくりよ)での、当時の母との再会の場面で、そこまで自分には、紫様に「感謝」こそあれ、恨みはなかった、という説明との整合性が、よく分からなくなっている。
この作品は、どのようなものであったら、よかったのだろうか? 孤高のテロリストの、十条姫和(じゅうじょうひより)に対して、そんな彼女を側で見続ける、天才の衛藤可奈美(えとうかなみ)の二人が、二人の母の頃からの関係から、決して、切っても切れない深い関係で結ばれている、ということを、二人の所持する刀の、千鳥、小烏丸の二つが象徴しているところは、おもしろい。
しかし、だとするなら、本当に、この作品が描くべきだったのは、姫和の細かい心の中だったのではないか。姫和にとって、紫様はどうなればよかったのだろう? 彼女の「恨み」が、結局のところ、なにがどうなれば、「納得」になれるような性質のものだったのだろう? 姫和の母が命をかけて行おうとしたのは、「ノロ」との戦いであったわけであろう。しかし、姫和にしても可奈美にしても、母からほどんど、相模湾岸大災厄の経緯を聞いていない。それは、公には彼女たち二人が関わっていないことになっていることが関係しているのだろうが、だとするなら、母は子どもに「ノロ」の問題をどのように説明したのか。いや、何も言っていないのか。言っていないのに、姫和は母の病状と相模湾岸大災厄、または、「ノロ」との戦いとは関係させていたわけで、その

  • 母の仇討ち

と紫様その人とを、どこまで結びつけているのかについても、よく分からないわけである。
作品の前半を見ると、人間がノロを体内にとりこむことが、ある種の「(阿片のような)麻薬」のように、一度そういった関係の「契約」を行ったら、そこから逃げられない、そういったタイプのものとして、紫様と「ノロ」の関係も理解していたように思われるわけだが、この関係性の「設定」を、このアニメは、あまり重要視していなかった、ということが露骨に見られるように思われる。
しかし、そういった「ノロ」の、よく分からない「性質」というものが、作品の後半に行けば行くほど、強調されればされるほど、結局、なんで姫和の母は死ななければならなかったのか。その「必然性」が、よく分からなくなっていくわけで、だったら、そこを徹底的に深く掘り下げて、

  • 姫和の納得感

を高める作業をもう少しやんないと、このアニメの世界観は、二つに「分裂」したまま、中途半端に「打ち切られた」といった印象のまま終わってしまっている、ということなんだと思っている。
少し話が、それてしまったかもしれない。最初に書きたかったのは、第一話の姫和の魅力について、というものであった。その辺りについて、少しブルーハーツの詞を振り返りながら、考えてみたい。

僕たちを縛りつけて一人ぼっちにさせようとした全ての大人に感謝します
1985年 日本代表ブルーハーツ
THE BLUE HEARTS「1985」)

ここで、「感謝」と言っているのは、もちろん「皮肉」なのだが、しかし、現代という「管理社会」においては、一体

  • 感謝

以外の、どんな態度ができうるというのか、と問うているわけであろう。私が、ツイッターとかで、大学教授が偉そうに説教をしているのを馬鹿にしているのは、こういった視点においてであるわけで、ようするに、この「管理社会」においては、そもそも私たちに

  • 感謝

以外の行動をとることは不可能なのだ。なぜなら、もしも「感謝」をしなければ、「管理社会」の側が

  • 不快

に思うのだから、たんに彼らに「差別」を行う「動機」を与えることしか意味しない。ようするに、「優等生」は

  • 不良

をどんなに「不公平」に扱っても、それが「正義」であり、「平等」だと思っている。これが「管理社会」の「本質」だって、言いたいわけであろう。

誕生日もわからない 白髪のおばあさん
ちからコブもつくれない あなたのちからでは
プロレスラーも倒せない 世界平和 守れない
あ− 奇跡を待つか あー 叫ぶのか 叫ぶのか
THE BLUE HEARTS「シャララ」)

この現代の「管理社会」においては、私たちは、だれも力をもっていない。つまり、「世界平和」を「守れない」。じゃあ、どうするのか、ブルーハーツがひたすら実践したのが

  • 叫ぶ

ことだったわけであろう。

夜の闇に悲鳴をあげた少年が今
狼になる なる なる
THE BLUE HEARTS「皆殺しのブルース」)

十条姫和(じゅうじょうひより)の魅力は、ある意味で、このアニメでは描かれていない。彼女は「一人」で母の死を考えて、ある種の

  • 狂気

に到達した。しかし、それは徹底して「個人的」なことであった。
こういった姿は、どこか、SF小説の『新世界より』が描いた、暴走するサイキックパワーを「制御」できない、産まれてきた子どもたちの「孤独」を思い出させる。それを、ブルーハーツ

  • 夜の闇に悲鳴をあげた少年

  • 狼になる

という形で、彼女、十条姫和(じゅうじょうひより)を説明するわけである...。