駅伝を「応援」するな

まあ、1日には企業の駅伝があって、2日、3日には、大学駅伝ということで、往路、復路ということで走っている。
しかし、この光景を見ていて、素朴な違和感がでてくるわけである。一つは1日の企業の、2巡目の「外国人」区と呼ばれているわけであるが、どうも、この2区だけは、日本人国籍ではない、外国人が出場できる、ということらしい。
しかし、言うまでもなく、日本の多くの企業は「グローバル企業」なわけで、社員の多くには外国人がいるし、外国で働いている人も多くいる。そもそも、ある種の「企業宣伝」として行われている、こういった企業内のスポーツ事業に、なんらかの

があるというのは、どういうことなのだろう? 各企業が、もしもオリンピックのマラソンで優勝しそうなアフリカの黒人選手が、自分の企業に所属してくれる、となったら、大変な

  • 宣伝効果

なのではないか。だったら、なぜそういった人たちが「2区でしか走れない」といった「差別」を受けなければならないのだろう?
さて。もう一つの違和感は、大学駅伝の1区で、たしか大東文化大の選手が

  • 足をひきずり

ながら走り始めたことへの違和感であった。というか、テレビの解説者も含め、「それ」をなにか「感動的」なことでもあるかのように盛り上げようとし、回りの観衆の声援も大きくなっているわけで、なんだこの光景は、と思わされたわけである。
明らかに、その選手は「怪我」をしている。だから、足をひきずっているわけで、なんでそうであるのに「走って」いるのか?
そもそも、そこまでしなきゃいけないことなのか?
そこで、「リタイア」すればいいし、それ以外の選択肢なんてありえないであろう。それ以降の選手生命に支障があるかもわからないわけで、つまり、「それ以外」の何かの理由が、駅伝には最初から読み込まれている、ということに違和感を覚えたわけである。
ようするに、駅伝は「集団競技」だと思われていて、多少の我慢をしてでも「みんな」のために走らなければならない、かのようなインプリケーションが、どこからとなく感じるわけであるが、よく考えてみてほしい。走ることは、徹底して「個人的」なことだ。もしもそうでなければ、どうやって自分の体からの「走るのを止めろ」という信号を、自分は受けることができるだろう。走ることが、徹底して自分自身のことだから、人は走り始められるし、走るのを止めることもできる。
しかし、ね。
学駅伝を見ていくと、この「茶番」の正体が見えてくるわけである。つまり、「繰り上げ」発進である。あるタイム以内で、今走っている走者が、次の中継地点に辿り着けないと、自動的に繰り上げされる。
つまり、そもそも、「繋い」でなどいないのだ!
だったら、足をひきずるくらいなら、走るのを止めませんか。そして、繰り上げにしてもらえばいい。そうすれば、少なくとも、各選手の、その区間の「記録」は残るわけで、一体、それ以上の何を求めているのか、と疑いたくなるわけである...。
(言いたかったのは、チームを応援するのではなく、各区間の「その」選手を応援したらどうですか、ということ。チームが何秒とか、なんの意味があるんだ、と。)

国家と鬱病

結局、私たちにとっての「国家」とは、今のカルロス・ゴーンの状況と比べるとよく分かるように思われる。
国家とは、私たちにとって、

  • 法律違反を「摘発」して、牢屋に入れるシステム

のことに過ぎない。しかし、安倍政権の森友問題、加計問題が示しているように、どんなに明らかな「犯罪者」も、牢屋に入れられない。平気に風を切って、パブリックな場で、のほほんと生きている。
このことが示していることは、

  • 権力者に「おもね」れば、牢屋に入れられない

という関係が分かるわけであろう。これが、

  • 御用「お友達」

というわけであろう。だれだって、一代で小金を貯めた連中には、どこかしら、脛に傷をもっている。そして、それを「国家」は

  • 知って

いながら、彼らを泳がせる。彼らは「好き」なときに、すべての国民を牢屋にぶちこむ。しかし、国民の方は、そんな自分の人生の

  • サクセス・ストーリー

を国家に邪魔されたくない。そこで、行うのが、「国家へのおもねり」なわけであろう。安倍首相の憲法改正に「賛成」。沖縄の辺野古の埋め立てに「賛成」。ロシアへの北方四島の譲渡に「賛成」。アメリカから100機の戦闘機を買うのに「賛成」。果して、これが保守なのかと思うわけだが、なんのことはない。安倍政権が行うことには

  • 全て

賛成しているのだと考えれば、なにも不思議はない。まさに、自民党ネット・サポーターズ・クラブ。どっかから「号令」一つで、いっせいに、

  • コピペ

を行う。そういえば、毎日、パワポの資料が配布されてきて、「今日はこれを言ってください」って、指示されているんでしたっけ。
このことは、なぜカルロス・ゴーンが牢屋にぶちこまれたのかをよく示している。なぜゴーンは牢屋に入らなければならなかったか。それは、

  • 「国家」におもねっている日産の西川社長に「泣きつかれた」から

と言うしかないわけであろう。「国家」は、日産の西川社長に、

  • 自分かゴーンのどっちを取るのか?

と迫られて、ゴーンを「捨てた」。これによって、世界中の経営者は日本の企業に努めたら、いつ牢屋に入れられてもおかしくない、と考えて、だれもやりたがらなくなるであろう。ゴーンは「国民」じゃなかった。だから、彼を「はめる」ことは、このゲームにおいて、いくらでもできると思われた。
しかし、そういった「関係」は、結局は「国家」への「おもねり」の強弱の大きさの違いでしかないのではないか、といった印象はぬぐえない。どれだけ、毎日において、安倍首相に「忠誠」を誓っているか。この「従順さ」において、その「競争」において、差がある限り、日本人だろうが「反日」というレッテルと共に、ゴーンと同じ運命を辿ることになり、そのことがプチ・ブルジョア知識人、プチ・ブルジョア経営者たちの「憂鬱」となり、「鬱」となる。
しかし、この裁判の行方は、なぜかアラブのお金持ちを巻き込むような「国際問題」に発展しそうな雰囲気まででてきて、この「醜態」はどこか、イスラエルで安倍首相が「やらかした」リップサービスで、日本人捕虜が首切りされたのを思い出させるわけで、この「国家」システムは、たっぷりと、国益を損ねてくれそうなわけで、なかなかの見物のようだ...。