言葉のレベルの言い合い

徴用工問題は、次々と韓国の裁判所で、日本企業の有罪が決定され、実際に差押え、現金に換金まで進みそうな状況だとニュースでやっている。
多くの人が思っていることと、私が考えていることが、それほど違うはずがなくて、つまり、この問題の「核心」はなんなのかが、一向にはっきりしてこないから、ひたすら

  • 韓国の人が嫌い

という感情だけが増幅されていく。しかし、それは「おかしい」んじゃないのか、というのは、いい加減、思うわけである。
それは、両方に言えるわけで、ようするに、

  • この問題の土俵はどんな構造になっているのか?

について、百も承知なわけである。お互い知っていながら、なにか、自分の「立場」の「踊り」を踊っている。なぜ?

坂元教授は、帝国主義事情論とは若干の距離がある。例えば、併合無効もしくは不成立論に対して、当時の国際法は強国が弱小国を植民地にすることを認める「強者の法」であったと指摘し、併合無効もしくは不成立論を納得させるのは困難だとして、事情論にたいして若干の距離を置きながらも、併合無効・不成立論には「今すぐに(併合と植民地化----引用者)有効説の立場から、近代国際法のそうした性質に対する責任をなぜ日本だけが負わなければならないかという反発が出てくるであろう。容易に答えが出る問題ではない。筆者を含めて国際法の研究者が真剣に考えなければならない」と述べて、事情論にアプローチしている。
(鄭昌烈「乙巳条約・韓国併合条約の有・無効論歴史認識」)
第3分科 報告書 | 公益財団法人 日韓文化交流基金 ウェブサイト

韓国の言っている理屈は、ようするに、

だ。日本による、韓国の併合は「強制」だったんだから、合法じゃない。つまり、韓国併合から日本の敗戦まで、

  • 違法状態

にあった。だから、日本はその間に、韓国同胞が受けた「苦しみ」の「賠償」を払わなければならない。
これを読んで、私は、日本会議による、「明治憲法有効説」を思い出した。日本会議は、GHQによる、戦後憲法を認めていない。つまり、戦後憲法

  • 違法

に作られたのだから、今でも、明治憲法が「生き続けている」というわけである。ただただ、戦後憲法を「捨て」れば、

  • 理想国家

に戻れる、というわけである。この二つに共通する側面として、

というところがある。どんなに日本会議が、「明治憲法に戻したい」と言っても、それは今の、網の目のような法体系において、あまりに戦後憲法と、からまり合って「存在」している、という事実に正面から向かい合わなければ、なにも言っていないのと同じなのだ。
そして、事情は韓国併合「違法」論においても変わらない。どんなに「形式的」な意味において、それが

  • 正義にかなっている
  • 普遍的

だろうと、たんなる事実の問題として、韓国併合は何十年と行われた。つまり、この「事実」がなくなるわけじゃない、ということなのだ。歴史は、その事実性を「シンプル」に記述することによって、世界を明確にしていく作業に、たかだかすぎず、後世の「倫理」がその時々で、形式的にラディカルに、スクラップ&ビルドをしていくようなものじゃない。
上記の引用で、私の言いたいことは分かっていただけたのではないだろうか。
ようするに、

  • 韓国側の主張 ... 歴史普遍的な「過去」の賠償の要求
  • 日本側の主張 ... 当時の特殊歴史的な文脈の中で、世界的な被植民地国の「評価」で、一方的に日本を「不利」に扱おうとする人々への警戒感

しかし、これは、どちらの主張なんてものじゃない。どんな事象にも、常に、この両方がからまりあっていて、その中で、お互いで、納得の地平を見つけ出していくしかない、という性格のもので、ほとんどこれに尽きているわけである...。

家族というPC

まあ、映画「ファースト・マン」を見た感想なのだが、正直、こんなにも分かりやすい

までを、アメリカのPCは

  • 家族物語

にしないと納得しないんだな、と考えると、すら恐しいまでの、このアメリカにおける「家族」強迫が強いんだな、というのはよく分かった。
そもそも、最近のアメリカのヒューマン・ドラマは、全て、家族、というか「父親」の話のような印象を受けるんだけれど、なんなんだろう。家族がいないと

  • 人格者

として扱われないのかな。家族について「悩み」がないと、人間として扱われないんですかね。
結局、なんでそうまでして、ニール・アームストロングは月面着陸を成功させようとしたのか、といったような、半分、生死のギャンブルを強いられるような毎日で、毎日、回りの仲間が次々と死んで行くような状況で、なぜ彼らが

  • 正常

な人格を保てたのか、といった窮極の何かを探したときに、やっぱり「家族」の何かの意味を、そこに見出さないと、どうしても説得的にならない、といった納得感の問題があるんだと思うんですよね。
月面で、ニールは幼くして、ガンで亡くなった実の娘と妻と彼と長男で一緒に外で遊んでいた姿がフラッシュバックするのだが、ニールはずっと、妻にも言えず、亡き娘のことを悩み続けていた。一人で悩み続けていた。だから、月面に思い出のネックレスを置いてくることが、その娘さんとの関係において、非常に重要な何かを象徴しているように描かれている。だから、地球に帰ってきて、妻と再会するときに、妻は彼の姿に、なんらかの個人的な(=家族的な)「やってやった」といった、達成感の表情を読み取ったときに、妻の表情が変わるわけですよね。
だから、この話は一見すると「家族」の物語なんだけれど、ニールが最初のガンで亡くなった娘の問題に、一人孤独に、ずっと悩み続けていた物語だと考えると、まあ、少し色彩が違って見えるのかもしれない。彼はその悩みを、家族に言えない。孤独にずっと、悩むしかなかった。そして、それになんの意味があるのか分からないけれど、月面着陸と、亡き娘をリンクさせることで、彼なりの納得の地平に至れたのだ、と...。