ドラッグ資本主義

私は本気で受験なんて止めればいい、と考えている。学力テストなんて、なんの意味もない。むしろこれは

  • 資本主義

が強いる「病気」だと考えているわけで、ようするに現代人はみんな「病気」だと言いたいわけである。

Netflix の『テイク・ユア・ピル:スマートドラッグの真実』というドキュメンタリーでは、アメリカの大学キャンパス内でADHD薬のアデロールが蔓延しているというエピソードが取り上げられている。ADHD薬には集中力を増す効果、眠気を覚ます効果などがある。学生たちはアデロールを服用することで、授業と試験と交友と競争からなる忙しいキャンパスライフをサヴァイブしているのだ。ところで、アデロールはアンフェタミンと類似した化学構造を持つ中枢神経刺激薬である。あのニック・ランドが常用していたというアンフェタミンである(そしてアンフェタミンはイギリスのレイヴ・カルチャーにおいて重要な役割を果たしたパーティードラッグMDMAと類似した化学構造を持っている)。
アメリカでは落ち着かない注意散漫傾向の子どもに対してこうしたADHD薬が処方されているケースが多いという。しかし、子どもたちはアデロールを摂取することで落ち着きを取り戻すわけではない。そうではなく、何かひとつのこと以外考えられない過集中の状態に陥るのである。だがこのことは、たとえば授業を集中して聞く、あるいはひとつのタスクに集中して取り組むといったこととは相性がいい。注意や集中力を特定の事柄に半強制的に方向づけること、それは資本主義リアリズムが要請する生産性の極大化のイデオロギー=労働倫理とやすやす合致する。
(木澤佐憲志『ニック・ランドと新反動主義』)
ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想 (星海社新書)

私はそもそも「能力」なんて存在しない、と考えている。「能力」とは、教育学に

  • 物理学

が「アナロジー」として、比喩として適用された何かでしかなく、そもそも実体のない無意味な空論なのだ。
あるペーパーテストをしたとしよう。そこで分かることは、たんに

  • その時、その人が何を書いたか?

だけである。そうであるのにも関わらず、そこから

  • なんらかの「ルール」

によって、そこから、ある「点数」を算出することは、

  • ただの「人間が勝手に決めた」数値算出手順

に過ぎず、なぜそれが、その人の「能力」と等値されるのかを、誰も証明できない。
むしろ、「学力」とは

と変わらない、それと等値な何かに、なり下がってしまっている。私たちは「努力」をするのではない。

  • 薬で体が<壊れる>

ことを「がんばる」何かでしかなくなっている。勉強ができる、東大に受かる、ということは、

  • どれだけ薬で体を<壊し>続けたか

と等値な何かでしかなくなる。ようするに、薬さえやれば、東大に受かるのだw
現代の極限まで「競争」を強いられるようになった、資本主義社会において

  • 他者に優位して<優秀>

ということの意味が、

  • どれだけ他人とは桁外れの「ドラッグ中毒」になるか

を意味するに過ぎない概念となり、何年か周期で「使い捨て」として使い潰されるブラック企業の社員たちは、こうして「薬で体を壊す」ことと「学校で勉強すること」「働くこと」「生きること」を

  • 区別

できなくなる、資本主義の段階を生きている、と言うわけである...。

自己所有権の「滑稽」さ

リバタリアンはなぜ世界は今だに、リバタリアンが考える

  • 理想の社会

にならないのかと

  • いらだつ

わけであるが、そういった光景は、どこか「滑稽」である。
その滑稽さは、カントをまったく理解していなかったニーチェが、勝手なイメージを押しつけたカントという名の偽物をボロクソに罵倒して、その

に「伝染」して、ニーチェの口パクを死ぬまでし続ける、彼ら「リバタリアン」の

の滑稽さ、と言ってもいいのかもしれない。
そもそも、リバタリアンはものを考えていない。彼らが行っているのは、終始、ニーチェの口パクという、「なんか考えた気にさせてくれるもの」であって、そこには、ドラッグにも似た

  • 達成感

の快楽が伴う。しかし、結局彼らが言っている「自己所有権」とはなんなのか、について彼らは死んでも説明できないのだ。

たとえば、福祉システムに代表される富を個人から個人へと強制的に移転させる財の再分配は、個人の自己所有権に対する侵害を含まざるを得ないという理由から退けられる。このように、ノージックは自由の権利を政治哲学のすべての領域の根幹に置く。とはいえ、ジョナサン・ウルフが批判するように、ノージックの「自己所有権」は見方によっては極端に形式的、もっと言えば無内容であるとも言える。ノージックは概念を、人間が生まれながらにして所与のものとして与えられている権利として叙述する。だが、彼はこの概念を養護するためのそれ以上の論拠や基礎づけを避けているように見える。自己所有権は自明の真理なのだから、それ以上の説明は要らないとでも言うように......。たとえば、『正義論』のジョン・ロールズであれば、権利は先行する正義の構造との関係で相対的なものであり、何物であれ「絶対的に私のもの」はなく、「そのルールによって私のもの」に過ぎないと言うだろう。
(木澤佐憲志『ニック・ランドと新反動主義』)
ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想 (星海社新書)

よく考えてみよう。自己所有なんて

  • 存在しない

のだ! あるのは、この社会が、つまり、人間が決めた

  • ルール

に過ぎない。しかし、そんなものは人間が自分たちで「そういうことにする」と打ち合わせたものに過ぎず、人間以外の

  • 他者

には、最初から関係ないのだw
なぜリバタリアンは滑稽なのか。それは、端的な事実性が証明している。たとえば、リバタリアンが国家によって、自分の資産を税金として奪われたとして

  • 自殺

する人間が一人でもいるだろうか? 私は今だかつて、そんな奴は一人も見たことがない。逆に、富の再分配を受けられなかったことで、飢えて死んだ人は

  • 今までの人間の歴史の中で「無限」にいる

わけであってw、さて。どっちが、その

  • 事実性

において、真面目に相手にするに値する真実だろうか。どうせ、リバタリアンは福祉に自分の財産を収奪されても自殺しない。資産家のわがまま息子のように、イライラした態度をすることはあっても、彼らは適当に、弱者いじめをしながら、ストレス解消して、むしろ今以上に

  • 健康

だっていうんだからw、人生に正面から向き合って、短い人生を真剣に生きようとしている人に比べて、こんな怠惰な奴らを相手にしているほど、私たちの人生は暇ではないわけである...。