若井敏明『平泉澄』

平泉澄というのは、伝説的な人である。丸山眞男も、網野善彦も、ある部分、彼を「仮想敵」として仕事をしていたのでしょう。彼は若いとき、自らを「国家主義者」と定義した。

その時の模様を報告した哲学科の野口広信によれば、その場で平泉は「余は国家主義者なり。とて五体に満ち満ちた元気を持って、国家生活を説き、同じ学窓に育ち同じ道を歩み行く者、先ず集り団結するは之れやがて真の偉大なる国家を築き成す基であると云って今宵の会を力をこめて賛美」したという。

私が思うに、これがすべてなんだと思う。それで、当然、彼は、民主主義を認めない。

このなかで平泉は、日本の歴史を概観して「わが国は天皇の親政をもって正しいとしたことは明瞭であります」と断言し、さらに「わが国は民主の国ではございませんでして、あくまで君主の国であって、ただその君主の目的がその君主の目標が民本の政治をおとりになった」ことに重大な点を認め、それを法文に明記したのが明治憲法であるという。いっぽう「マッカーサー憲法」は「外国の暴力による強制」であって、「このまま行はれてゆくといふことでありますならば、国体は勢い変らざるを得ない」。したがって、「マッカーサー憲法」を破棄し、明治憲法を復活してこそ、日本の国体は明確になると論じた。ただし出席の国会議員らは現実との関係で、平泉の主張に難色を示し、平泉も「政治家による憲法問題の解決に、見切りをつけ」、講演や著述で「国体の闡明」につとめるようになったという。

平泉の弟子たちは、戦後も当然、日本の政治に多くの影響を与えてきたわけである。そのまま、残っているわけですから(最近でも、厚生省の、靖国神社へのA級戦犯合祀の、ほとんど「クーデター」と言ってもいいくらいの働きかけが問題になったが)。戦後の日本が、戦前、戦中と、まったく違うものと考える方がおかしいのだ。

ところで、この講演のなかで平泉は、「マッカーサー憲法」下で国体が変動していく実例として、歴史教科書をあげ、「それらは根本において共産主義の歴史理論を採用し、日本人でありながら祖国の歴史を侮辱し、嫌悪し、罵詈雑言してをるのであります」と非難して、歴史教育についての危機意識を名言している。この発言との因果関係は明らかでないにせよ、このころから教育、とくに歴史教育でのいわゆる「逆コース」が顕著になるのは注目すべきことである。具体的には、1955年に民主党が『憂うべき教科書問題』というパンフレットを発行したあと、文部省は1956年から視学官制度、教科書調査官制度を設定した。そしてこの時期、文部省には平泉門下の人々がはいって活動するようになった。教科書調査官には、平泉のもとで国史学研究室の助手をつとめていた村尾次郎、視学官には鳥巣通明が着任した。それに山口康助教科書調査官をあわせて、彼らは文部省の三羽烏と呼ばれた。同じ1956年、教育委員会は任命制にかわり、そのもとでこの年、教員の勤務評定が実施されることとなった。これが日教組の反発を招き、いわゆる勤評闘争が戦われることおとなった。そのようななか、各地の教育委員には平泉門下が任命され、日教組と対立する場面もみられるようになったのである。

平泉澄―み国のために我つくさなむ (ミネルヴァ日本評伝選)

平泉澄―み国のために我つくさなむ (ミネルヴァ日本評伝選)