柄谷行人「国家は死滅するか」

これは、けっこう、昔、湾岸戦争から少したった頃の柄谷行人さんの短かい論文である。
自由主義、国家の廃止、こういった問題について整理している。ノージックの本とかありましたが、つまり、最近の、リバタリアニズムに近い問題関心ですね。
ただし、ここで言う自由主義とは、どちらかと言うと、経済学、ハイエクなどから来ている視点ですね。ハイエクは、ケインズと並び称される経済学者だが、マネタリズムの、フリードマンや、この、系列の、竹中正蔵でしたっけ、彼も、そういった傾向があったのでしょうかね。
以下のような問いかけから始まる。

今日、「社会主義」といおうと「民主主義」といおうと、国家が介入しなければやっていけないという考えがすっかり定着している。それを人類にとっての進歩であると考えるひとが多数である。しかし、国家の干渉を否定しながら国家の介入を要求することは、矛盾ではないか。たとえば、一方で国家権力の拡大を否定する連中が、他方で国家による援助や法的規制を要求しているのである。

国家の規制がなければ独占が生じるといわれるが、国家が最も独占的であり、また資本の独占もいつも国家と癒着したかたちで生じている。

この問いかけは、本当に重いと思う。どれくらいの人がこういったことを考えているか。国家をそれほど自明に考えることは、どうなのか。そこまで、国家を後世大事にしなければいけないのか。
独占が国家と常に関連しているのは確かだ。逆に、自由主義が安楽の世界かといえばそんなわけがない。

自由主義」あるいは「レッセ・フェール」は、アダム・スミスが考えたほど甘くはない。それは、共同体にいれば安穏に暮らしえたかもしれない諸個人を、たえまない飛躍、偶然、崩壊に追い込むのである。

弱者の問題は、以下のように説明する。

「弱者」とは、「自由」に耐えられず、それよりも強制と従属を望む人間のことである。

むしろ国家が「弱者」の面倒をみるということは、国家がそれを独占し、私的な救済を課税や認可制などによって妨げるということを意味している。われわれは目の前にいる他者を、税金を通してしか援助できない。また、日本のように国家の独占が強いところでは、民間の自発的な援助組織も育たないのである。

現代思想 1991年5月 特集 思想としての湾岸戦争
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