柄谷行人『探究2』

この、「探究」という一連の論文は、いろいろな大変、示唆に富んだ指摘がある。以下は、「シャーマニズム」について書いた所である。

彼(農夫)は共同体の内部に属する者であり、また何とか操作しうる自然を相手とする者である。彼は、自然に対して無力であるがゆえにその構造を見きわめようとするどころか、自然に対してたち向かいそれを支配しようとする。すなわち魔術によって。もちろん魔術は自然を動ごかすことができないのだが、そのことで挫折したりしない。なぜなら、その代りに人間を動かせばよいからだ。シャーマニズムは、個体を共同体に同致させる技術である。シャーマンの「言葉」は、共同体の意志、あるいは共同体の矛盾を察知しそれを解消させようとする意志を示す。(中略)しかるに、魔術は自己愛的であり、人間中心主義的であり、「感情移入」 (ヴォリンガー)的ではあるが、実際は他者(外部)をもたず且つけっしてそれに出会わないような思考なのである。

それは説得のための言語を必要としないし、むしろ言葉をしりぞける。なぜなら、それは「言語的分節をこえた実在」に向かうからだ。われわれは本来「実在」を知っているはずなのに、言語によってそこから遠ざけられている、というわけだ。だが、他人を強制する権力に転化しないような神秘主義などありえない。なぜなら、それは「実在」(真理)を握っているからであり、万人がそれに従わねばならないからである。また、「真理」の実現をさまたげている者は排除されねばならない。

シャーマニズムは、神秘主義であり、それは、共同体主義であることですね。共同体的なもの、共同体的な生き方を、どう考えるのか。それは、人間の本質なのだがらと、郷の入りては郷に従えで、なんでも、受け入れるのか。さらに、その批判は、近代の理性、合理主義にまで、進む。

この意味で、「理性」が、魔術を排除し非真理性(狂気)の領域に追放したなどというのは当たっていない。理性やイデアというものは、むしろ魔術に由来し、魔術的に機能するのである。魔術が通用するのは、共同体の内部だけである。それは自然を動かすのではなく、人間を動かす。その「力」は、人間を拘束している共同幻想の範囲をこえられない。それは、共同体の外部では通用しないからである。実際のところ、魔術の 「力」とは、共同体の拘束力にほかならない。普遍的な理性についても同じことがいえる。それが「力」をもつのは、近代国家の具体的な諸制度においてである。それをはなれて近代合理主義なるものを一般的に想定し、さらにそれの克服を「魔術の回復」に見出すというのは、まったくの錯誤である。近代合理主義は魔術であり、それが「力」をもつのは近代国家の諸制度の内部においてのみなのだ。

探究2 (講談社学術文庫)

探究2 (講談社学術文庫)