柄谷行人「安吾とアナーキズム」

この論文は、2002 年の坂口安吾のムック本に掲載されている比較的、短かい論文である。ここで、柄谷行人さんは、坂口安吾が、早い時期から、日本のアナーキストとの、交流があったことを指摘しています。
坂口安吾という人も、伝説的な人ですね。作家であり、文芸評論家であった人で、戦中から、戦後にかけて文壇で活躍した人ですね。「堕落論」など、あまりに有名です。
安吾は、敗戦後の日本には、二つの優秀なこと、農地解放と、戦争放棄の新憲法の、があったという。
農地解放というのは、本当に、根本的に変えたと思う。これや、財閥解体が行われなかった場合の日本を考えるとこんなふうにはなっていなかったと思う。
戦争放棄については、しかし、これは、「国民主権」でさえない、というのだ。

彼は戦争放棄を掲げる新憲法を支持した。しかし、それは「国民主権」の立場からではない。「国民」の立場に立つかぎり、どうしても「自衛隊」という発想が出てきてしまう。

「戦争をやらない」というが、これは、いったい、どこまで本気なのか、ということだと思う。本気でやるなら、やらないと。そして、それが、どういうことなのかも徹底的に考えないと。

戦争などというものは、勝っても、負けても、つまらない。徒に人命と物質の消耗にすぎないだけだ。腕力的に負けることなどは、恥でも何でもない。それでもお気に召すなら、何度でも負けてあげるだけさ。無関心、無抵抗は、仕方なしの最後的方法だと思うのがマチガイのもとで、これを自主的に、知的に掴み出すという高級な事業は、どこの国でもまだやったことがない。/蒙古の大侵略の如きものが新しくやってきたにしても、何も神風などを当にする必要はないのである。知らん顔をして来たるにまかせておくに限る。婦女子が犯されてアイノコが何十万人生まれても、無関心。育つ子供はみんな育ててやる。日本に生れたからには、みんな歴とした日本人さ、無抵抗主義の知的に確立される限り、ジャガタラ文の悲劇など有る筈もないし、負けるが勝の論理もなく、小ちゃなアイロニイも、ひねくれた優越感も必要がない。要するに、無関心、無抵抗、暴力に対する唯一の知的な方法はこれ以外にはない。(坂口安吾「野坂中尉と中西伍長」)

もう、アナーキズムですね。自由主義でもあるだろうし。暴力を抑えるためには、正義を実現するためには、国家に武装してもらって、その実力を行使してもらうしかない。そのためには、国家にしっかり武装してもらって、自分たちが、負けないようにしてもらわないと。しかし、こう考えた時点で、武装化は、限りなく、ふくれ上がり続けるでしょう。そして、軍隊というものが存在を許した時点で、多少の彼らの、息抜きは必要と考えられて、略奪も責任を問われなくなるかもしれない。なにか、国家暴力を、簡単にコントロールできると考えるところから、ちょっと根本的に離れて考えてみよう、ということですね。
そして、アナーキズムは、家族についてさえ、問題とする。

けれども、ここに問題は、部落的、藩民的、国民的限定を難じ血の一様性を説く咢堂の眼が、更により通俗的な小限定、即ち「家庭」の限定に差向けられていないのは何故であろうか。家庭は人間生活の永遠絶対の様式であるか。男女は夫婦でなければならぬか。国家や部落の対立感情が文化の低さを意味するならば、家庭の構成や家庭的感情も文化の低さを意味しないか。(坂口安吾「咢堂小論」)

家族といえば、儒教では、すべての基本である。しかし、よく考えれば、そんなに、基本というものなのか。もっと多様な人間関係があるのではないか。もっと人間を自由に考えていいのではないか、と思いますね。それは、欧米での、事実婚を意味しているということじゃなくて、もっと違った人間関係ですよね。もちろん、事実婚と普通の結婚があまりにも差別のある日本を問題にしてないということではないのですが。
あと、こういった安吾の発言が、啓蒙的である、ということも指摘している。

簡単に言えば、安吾は、幻想、迷信、仮象などといったものを、道徳であれ宗教であれ国家であれ、徹底的に認識し、解消しようとしたのであり、この姿勢を彼は一度も放棄していない。

簡単に言ってしまえば、科学ですね。シャーマニズムじゃないってことだ。
こういった形で、安吾は、理論においては、徹底的にラディカルであるわけです。しかし、実践において、漸進的に考えていた、という。

政治とか社会制度は常に一時的な、他より良きものに置き換えられるべき進化の一段階であることを自覚さるべき性のもので、政治はただ現実の欠陥を修繕訂正する実際の施策で足りる。政治は無限の訂正だ。/その各々の訂正が常に時代の正義であればよろしいので、政治が正義であるために必要欠くべからざる根底の一事は、ただ、各人の自由の確立ということだけだ。(坂口安吾「暗い青春」)

社会機構の革命は一日にして行われるが、人間の変革はそうは行かない。遠くギリシャに於て確立の一歩を踏みだした人間性というものが今日も殆ど変革を示しておらず、進歩の跡も見られない。社会組織の革命によって我々がどういう制服を着るにしても、人間性は変化せず、人間性に於て変りのない限り、人生の真実の幸福は決して社会組織や制服から生みだされるものではないのである。(中略)為政者が社会制度のみを考えて人間性を忘れるなら、制度は必ず人間によって復讐せられ、欠点を暴露する。(坂口安吾「咢堂小論」)

生成流転、無限なる人間の永遠の未来に対して、我々の一生など露の命であるにすぎず、その我々が絶対不変の制度だの永遠の幸福を云々し未来に対して約束するなどチョコザイ千万なナンセンスにすぎない。無限又永遠の時間に対して、その人間の進化に対して、恐るべき冒涜ではないか。(坂口安吾「続堕落論」)

何度も言われることだけど、世の中なんて、そんな急激に変わることなんてない。

越境する安吾―坂口安吾論集〈1〉

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