柄谷行人「中野重治のエチカ」

大江健三郎との、中野重治をめぐる対談である。これは、リラックスした中で、語られたものだと思うが、今読んでも、大変興味深い対談である。その全体像は、本文を読んでもらうとして。
こういった発言がある。

僕は、基本的に、資本主義は終ると思っています。それはいつ終るかわからないし、無理やりに終らせることもできないし、またそうすべきでもないけれども、それは絶対に限界がある。資本とは自己増殖する貨幣であって、剰余価値を確保できないかぎり死滅するからです。資本主義がグローバルに深化すうほど、大がかりにその限界を自ら生み出す。それがいわば弁証法です。必ずそういう時期が来ると思います。

資本主義は終る。しかし、その終わったということが、何を意味しているのか。どんな世界なのか。わからない。けど、この矛盾がただの矛盾だけでは、生きられないだろう、ということか。その時は、人類が死滅しているのか、なにが起きているのか。
また、こんな、さりげないコメントがある。

昔、あるアメリカ人からこういうことを聞きました。日本では「国際化」ということが言われているらしいけど、日本の田舎に行くと、すごく国際的な人間がいると思うと言うんですね。もちろん彼らは外国語も外国文化も知らない。しかし、たんに見知らぬ異邦人に親切にするということ、それが一番普遍的で、国際的なわけです。スピノザが言ったのもそういうことですね。中野さんが持っていたのは世界的な認識ということではなくて、恐らくこれはどこでもこうなんだという構えだろうと思うんです。

ただ、外国人に親切にする。そのことが、「普遍的で、国際的」である。こういった発言には、柄谷行人さんの自由主義的な、政治的部分もあるだろうけど。
私たちが普通に、「普遍的で、国際的」とは何かを考えることは、難しい。いろいろな立場の人が、いろいろなことを言っている。しかし、ここでの、根拠は、「これはどこでもこうなんだ」ろうという素朴な判断であり、これは説得というより、一人一人に問いかけているような言い方に思える。

雑誌 群像 1994年01月
(バックナンバーは、図書館ででも探して読んで下さい)。
screenshot