松本健一『三島由紀夫の二・二六事件』

この本では、掲題の通り、三島由紀夫と、二・二六事件の関係を中心に、さまざまな角度から、論じられている。内容豊富であるが、新書で、薄く、さっと読めてしまう。
三島由紀夫北一輝。この二人の特徴を考えたときに、ある一つの傾向を、この本では指摘している。両方とも、天皇の、日本国家における重要性を、これ以上ないくらいに強調していながら、ある種の、自分と天皇を同列に置くような視座をもっていたというのだ。

寺田は、「革命児・北一輝の逆手戦法」に、北の言葉を次のように記している。/「僕は支那に生れていたら天子に成れると思った」/北は大正十三年のころ、みずから天子を意味する「龍尊」という号を用いていた。いずれにしても、日本の天皇をみずからのライバル視するような、そういう不遜な感情をいだいていたのである。

三島は『仮面の告白』に、祖母夏子(旧姓・永井)のことを「十三歳の私には六十歳の深情の恋人がいたのであった」と記している。(中略)ただ、夏子は熾仁親王と皇女和宮の悲恋を、みずからの威仁親王との悲恋になぞらえて孫の公威----三島由紀夫の本名は、平岡公威である----に物語ったにちがいない。野坂昭如が『赫奕たる逆光』に書いているように、夏子がその溺愛する孫に「お前は、お父さんの子供じゃないんだよ。尊いお方の血をひいていなさる」ぐらいの思わせぶりな話をしたかもしれない。/そうだとすれば、三島が有栖川宮威仁の血をひいているかどうか、つまり父平岡梓が威仁と夏子の悲恋の落し子であるかどうか、などという事実問題はどうでもよくなり、三島の精神のなかに貴種伝説のみが影を落とすことになる。

二・二六事件というのは、戦前の日本の政治の中でも、今でも、謎の多い事件として語られる。若い軍人たちによる、政治家暗殺、テロ、である。彼らに、大きな影響を与えた存在として、また実際、一緒に死刑にされているのが、北一輝、である(一方、三島は、十一歳の頃で近所で起きて、興奮していたそうだ)。確かに、この若い軍人たちの行為は、北一輝の影響下にあったことは確かのようだが、北一輝の指導のもと、行われたわけではないようだ。若い軍人たちは、北一輝の考えるクーデターをやったというより、自分達の気概を行動で示すことにより、軍の高官、特に、天皇が、意気に感じてもらえるはずだ、という、ロマンティックな動機があるようだ。実際、テロの後の事態の収集のことなど、ほぼ考えられてなかったに等しいといった傾向があったようだ。こういったところからも、どうも、若い軍人たちの行動という面では、北一輝と、ほぼ無関係の単独犯行と考えるべきで、北一輝のクーデター論から、それにひきつけて考えるようなものではないようだ。若い軍人たちの思うロジックの中では、たとえ、自分たちは、ハラキリをすることになっても、一方的な断罪で終るはずはないと、考えていた。実際に、軍の大勢は、そういう形で、気持ちは分かるという雰囲気だったようだ。しかし、昭和天皇の聖断により、彼らは、反逆者として、問答無用で、断罪された。
三島由紀夫は、限りなく、若い軍人たちを、支持する。彼らを支持して、さらに、昭和天皇の行動をこそ、断罪する。それが、文化防衛論の主旨である。

かれが『文化防衛論』で導き出した結論は、こうだった。先の引用につづく部分。

このような事態を防ぐためには、天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくことが急務なのであり、又、そのほかに確実な防止策はない。もちろん、かうした栄誉大権的な内容の復活は、政治概念としての天皇をではなく、文化概念としての天皇の復活を促すものでなくてはならぬ。文化の全体を代表するこのやうな天皇のみが究極の価値事態だからであり、天皇が否定され、あるひは全体主義の政治概念に包括されるときこそ、日本の又、日本文化の真の危機だからである。

三島は、いわゆる左翼(もしくは市民主義者)が批判するように、戦前の統帥権をもち統治大権を総攬していたような政治権力としての天皇制の復活を望んでいるのではない。(中略)/しかし、そのためには「天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくこと」が絶対に必要だ、というのである。

三島の自殺は、上記、諌言が、彼なりに、二・二六のテロリストたちと同じ、反逆者としての側面があると分かってやったこととして、その無礼の責任を、ハラキリをして引き受けた、というつもりもあったんでしょうかね。
さて、また、昭和天皇は、北一輝を抹殺したが、奇妙なことが、指摘される。戦後の、日本の憲法・国家体制は、ほぼ、北一輝のプログラムの通り、実現された、というのだ。

三島は「北一輝論」に、こう書いている。

私は以前にも述べたが、北一輝が「日本改造法案大網」で述べたことは、新憲法でその七割方が皮肉にも実現されたといふ説をもつている。その「国民の天皇」といふ巻一は、華族制の廃止と普通選挙と、国民自由の回復を声高に歌ひ、国民の自由を拘束する治安警察法や新聞紙条例や出版法の廃止を主張し、また皇室財産の国家下付を規定している。これらはすべて新憲法によって実現されたものであり、また私有財産の限度も、日本国民一家の所有しうべき財産の限度を一百万円とする、と機械的に規定したが、実質的には戦後の社会主義税法により相続税の負担その他が、おのづから彼の目的を実現してしまった。

(中略)マッカーサー(=GHQ)は二・二六事件を「民主革命」的だと評価していたが、ひょっとしたら『日本改造法案大網』の「国民ノ天皇」を参考にして、戦後憲法をつくったのではないか、などと想像したくなってくる。(中略)では、北一輝は戦後の「第二の開国」、すなわち民主的改革において全き「予言的思想家」の役割を果たしていたか、というと、そうではない。戦後のいわゆる「平和憲法」は、その「戦争放棄」(第九条)という一点において、北の思想を封殺していた。

当時の当事者として、昭和天皇は、このことをどう思っていたのか。または、こういった事実すら、知らなかったのか。知っていても、どうでもいいことと思っていたのか。彼はホンネを話せない立場とされてますから、こんなふうに問いを立てても無駄ですが。
まとめですが、三島の方については、彼の個人の葛藤ですむ面もあるかと思うが、北については、そうはいかないでしょう。私たちの戦後は、「北の思想+憲法九条」だということなのだ。北の鬼子を、戦争放棄が「封殺」したもの、だと。いずれにしろ、戦後とは、北の思想を無視してはありえない、ということなんですかね。
思ったけど、安倍元首相の、憲法改正話は、こうやってみても、なんだったのか、とは思いますね。

三島由紀夫の二・二六事件 (文春新書)

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