宮台『靖国』論

以下は、社会学者の宮台さんのHPにある、今回の李纓という人のドキュメンタリー映画靖国』にまつわる騒動について、彼が時事的に書いたエッセイ。

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読んだ印象としては、あまり正面から論じているという印象を受けなかった(そもそも、宮台さん自身が、靖国をどう総括しているかは、ほとんど書いてないですね。映画『靖国』は駄作とは言っているが)。
まず、宮台さんの言いたいことがどこにあるのかですが。

問題がどう把握されるべきで、どこに問題があるか。それが連載第一回の主題である。「何を言うか、表現の自由の問題じゃないか」と憤激する向きもあろう。間違いだ。表現の自由憲法規定で、憲法規定は国民ではなく国家(統治権力)への命令だからだ。
交際を申し込まれた女が創価学会員は嫌いだと断った。憲法違反か。否。女は働かずに嫁に行けと父親が娘を諭す。憲法違反か。否だ。信教の自由や両性の平等という憲法規定の名宛人(命令の宛先)は国民ではないからだ。これを分かっていない者達が多い。
であれば、かつての顕密体制ではないが、日本は末端では立憲国家とは言えない。立憲国家とは憲法が法律に優越する政治体制だ。憲法が法律に優越するとは、国民から国家への命令の枠内で国家は国民に命令できるということ。法治(法の支配)の一類型だ。
今回は文科省が『靖国』に750万円の助成金を出していた。むしろ国家は『靖国』を支援していたのだ。

ようするに、宮台さんのポイントは、「官僚がこの映画を助成している」、そこにフォーカスがあるんですね。だから、国家が『靖国』側なんだから、その国家に文句を言ってる与党議員が、表現の自由を抑圧する側じゃないだろう、と。

社会学的な言い方では「行為へのコミットメントではなく行為を支えるプラットフォームへのコミットメントの問題だ」ということだ。倫理学的な言い方では「自由の基底性より正義の基底性が優越するという問題だ」(井上達夫)ということになるだろう。

逆にそういう、国家と戦っている与党議員の言論を抑圧することこそ、表現の自由の抑圧なんじゃないか、と。
しかし、私にまったく理解できないのは、上記の整理でもいいですが、そうだったとしても、ますます、言論・表現の自由の問題なんじゃないでしょうか。
むしろ、言論・表現の自由を超えるなにかなんてあるわけないじゃないですか。「性の自己決定」の議論で、一時代をひっぱった自由の旗手が、安易に、なにかを指差して、「言論・表現の自由の問題じゃない」なんて、軽々しくもよく言えますね(最近の国家至上主義的な側面を強くしてきている所以なんでしょう)。
だから、与党議員側の表現の自由は、別に、だれからも抑圧されてないですよね。識者から、嫌味を言われたことが、言論弾圧だと言いたいのかもしれませんが、そもそも、政治家が、あいまいな意図のもと、官僚を操作したら、いろいろ言われるのは当然でしょう。
だから、直接的に言ってることを受けとれば、与党議員は、監督が外国籍という理由で、官僚が行った『靖国』への助成を不当だったと認識させて、間違ったことをしたんだから、それなりに官僚になんとかしろと圧力をかけた、こんなところでしょう。その補強的な作業として、映画鑑賞を要求した、と。
しかしね。文化事業として、たいてい、ドキュメンタリーは、こういう公的助成は、されているんですよね。(たとえば、このお金を多少減らして、福祉に回してもらえないかな、という議論はあると思うけど、)たとえ外国の方だとしても、文化事業としてやるなら、おおいに助成したらいいと思いますよね。国家を礼賛したものじゃないと、お金を使うな、とでも言いたいのでしょうかね。それとも、こういう助成自体が、正義に反するから一律、やめよう、なんでしょうか。つまり、『靖国』への補助金というのは、ほかのドキュメンタリーと同等の立場でのものでしょう。これが問題なら、他も同様に問題にしないと。また、そもそも、もう払っちゃっているんでしょう。どうしたいの?
いずれにしろ、与党議員側は、自分の言いたいことは好きに言えてるし、テレビなどの発言の場所も提供されているし、行動もできている。官僚をいろいろ動かせてすらいる。表現の自由の抑圧なんて、少しもない。
だから、普通に考えると、その逆の側面こそ、多くの識者が指摘していることですよね。与党議員側が、かなり限定された曖昧な指示によって、官僚に働きかけている実態があり、その延長上で、今回の、右翼襲撃から、全国一斉の、上映中止の事態が起きていた、と。
ちょっと挑発的に言わせてもらえば、わたしもよく知らないが、そもそも今回、派手にたちまわった与党議員は、左を毛嫌いしていることをさまざまに公言してきている人たちですよね。オオカミ少年の話がそうですが、むしろ、そういう立場をあえて選んで今まで生きてきた人が、「自分にそんな意図はなかった」という言葉を発することに、どれほどの意味があるのでしょうか。本当にそんなことを信じてもらいたいのでしょうか。
しかも、与党政治家といういくらでも権力をもった立場の人なわけですよね。逆に言ってしまえば、裏の力を使えば、なんだって思うことは実現できる人たちなわけでしょう。国民は与党の政治家が官僚とタッグを組めば、それくらいのパワーがあることくらい知ってるわけだ。
安倍元首相のおじいさんにあたり、満州に深くかかわり、A級戦犯容疑者でありながら、戦後、総理大臣になった岸信介が、全共闘日米安保阻止の国会突入を、暴力団を使って妨害したことは、立花隆がしつこく言っていたことですよね。与党政治家とそういった国家の外にある暴力装置が長年結びついてきたことは、歴史が非常に多くの例をもって証明しているわけでしょう。
これは、宮台さんのナガナガクネクネ論文に言いたいんですけど、だから、「こういう靖国という神聖な場所を舞台にして、中国人によって、おもしろおかしく描かれたものを、日本国民の前にさらされて、侮辱されることは、なにがなんでも、どんな手段を使ってもストップしたかった」でいいんじゃないですか。なんでそうミフタで言わないんでしょうかね。もしかしたら、本当に、たんに日本人を侮辱し続けるだけの内容だったかもしれないわけじゃないですか、見る前までは。
なんというか、とにかく、今回、派手に動いた与党政治家が、もう少し戦略的に、うまくたちまわれないのか、じゃないですかね。あまりにも、カッとなって、頭に血がのぼりすぎなんじゃないですかね。政治家になれたくらいなんですから、頭いいんでしょ。こういうところが、陽明学といいますか、日本の政治家の特徴なんでしょうね。「自分にそんな意図はなかった」も、宣長的でしょう。ナイーブにそう発することが、「もののあはれをしる」になり、よって真理だと。でも、いくら本人が真理を標榜しても、他人の批評を受ける身でしかないわけでね。だから、やれることなんて、日ごろの行いによって信頼を少しづつ勝ち取ることくらいなわけだ(WEBを含めて、さまざまな言論抑圧で、暴力的にコントロールしようというのが、最近の与党の政策みたいですが、どこまで国民をだまして、実現できますかね)。
宮台さんは、今回の与党議員に非常に好意的なんですね(また、右翼は差別されているから、世間の規範からはずれるのはしょうがない、とまで言いきってしまう)。与党議員には、官僚にいろいろ言う権利がある。だから、むしろ問題があるとすれば、それはマスコミがやることをやってないからだ、と。

[議員が動くと結果として上映しにくくなるという効果があるのなら]それを払拭するのがメディアの責務です。メディアが稲田議員たちのところに行って「文化庁の助成が妥当かどうかについて政府に抗議するだけなのか」を確認し、それを逸脱すれば徹底批判して潰せばいい。メディアがキャンペーンをはれば簡単に潰せます。でも国会議員も稲田議員だけじゃない。「別にいいじゃないか」という議員が上映会を要求して「国民よ、観ろ」と戦えば、メディアが動くまでもなく、つり合いがとれるはずです。

メディアの責務?なんで国民がそんなことをしないといけないんだ。
自分の無実を証明したいのは、与党議員の方だろうが。自分で勝手に潔白を示せばいいだろ。それがまともにできなきゃ、国民に嘘をつくことが疑われる信用できない奴として、次の選挙で落とされるだけだろう。
自分で何を言ってるのか分かってるのかな。たとえ、国家権力者集団による国策によるさまざまな不当な(言論の自由を抑圧する)暴力の行使が行われているとしても、そこに問題があるとするなら、事後的に国民がその意図も含めて、調査をして、告発をする努力をしてるかどうか、その能力があるかどうか、だけだと。
だから、なんでいつまでも、国民は、右翼や国家のおもりをし続けなきゃならないんだ?またいつもの、国民への逆ギレだよ。あまったれてんじゃねえよ。
なんか、とにかく、志が低すぎないかなあ。もっと人間として、ゆずれない肝っ玉ってあるんじゃないですかねえ。