再び『倫理21』について1

前にも

倫理21 (平凡社ライブラリー)

倫理21 (平凡社ライブラリー)

については書いたのですが、ちょっと、違った部分について書こうと思います。まず、

  • 第11章 死せる他者とわれわれの関係

についてです。というのも、戦争責任について、考えるときなんですね。

カントの考えでは、法は道徳性の実現が困難であるからこそあるわけで。そして、国際法はその典型です。国家間の関係において、道徳性は最も困難です。主権国家は、それを超えるものをもたないことになっているから、それを規制するような法には承服しない。だから、国際法は、実際にはどこかの強国の「暴力」によってしか実現されない。そのために、それはそのような強国の利害に従属してしまいがちです。また、国際法は、相互に「主権国家」として承認される国家間の法です。

国家というものがたちあがってくる場面とはどこか。それは、他の国との関係を問われているときなんですね。だから、どうやってある国(?)が他の国々から承認されるか、そう考えると、まったく国内で閉じているなんてありえない話なのだ。そう考えると、国家を一つの独立したものと考えることが、まず、最初のつまづきなのでしょう。国家というものをひとたび考えた時点で、実は、まわりの多くの国家の存在を認め、それらとの関係を考えるという、もう一つ上の組織(国際連合、もっと言えば、世界共和国)が、どうしても、たちあがってこざるをえないわけでしょう。各個人が全世界の事象の責任とつながっていく、そういった関係は、最初から、当然、内包しているはずなんですよね。

第二次大戦後、日本やドイツだけが戦争責任を問われたように見えます。しかし、とにもかくにも、戦争責任が法廷において裁かれたことは、それ自体画期的なことです。それが戦勝国によるものであろうと、その後戦勝国をも規制するものになるからです。

実はこれが一番大きいんじゃないでしょうか。こうやって、段階を踏んで、後々、人間の社会を強いていくなにかになっていく。

たとえば、アメリカの広島・長崎への原爆投下は、明らかに国際法違反です。それが不問に付されたのに、なぜ日本の南京大虐殺が追求されるのか。そこから、東京裁判戦勝国による一方的な裁判であるという反論が生じます。しかし、日本人がそのことをいえるのは、日本が国際法的な理念を追求するかぎりにおいてです。

私は、いずれ、アメリカの原爆投下の「責任」が問われる時代が来ると思います。

さらにいうと、日本は朝鮮や台湾、満州などを植民地にし、また東アジア一帯を占領しました。しかし、かつての英仏などの植民地支配が許され、日本のような「後進」帝国主義国のれが「侵略」として非難されるというのは、奇妙ではないか。実際、その通りです。私は、いずれ、西洋諸国の植民地主義の責任が問われる時代が来ると思います。

しかし、それは日本を相対的に免罪することではないし、また、それは非西洋の諸国の人々の怨恨や報復の問題でもない。世界史が新段階に入るためには、「国家」に基づいて行動してきた過去の人類史を反省しなければならず、そのとき、各国の人間は、それぞれの国家の行為を冷静に見つめなければならないからです。

この本の前半の、責任の問題もありますが、なにか、各、一人一人が、人を殺したという事実を、簡単に、上の組織、国家のパワーポリティクスに解消しすぎているんじゃないかな、という印象がありますね。その殺人を実際に現場で実行した人がいるわけです。その人、一人一人は、どんなことを考えて、その後の平和な時代を過ごして来たのでしょうか。私も、あらゆる戦争の中における、あらゆる人のあらゆる行為が問われることに必ずなるし、ならなければならないと思いますね。
それは、言論・表現の自由が、時代が進むことによって大きく後押ししていくでしょう(デジタル・メディアの進展は個人をさらに多くの情報とリンクするでしょう)。
例えば、ある死刑囚に対して、死刑執行の実行を国家に命令された官僚がいるとします。彼はその人を殺すことが「できる」のでしょうか?他でも同じです。帝国陸軍は南京に入って、多くの人を殺したと言われています(南京大虐殺)。たとえ、命令があったとして、殺してよかったのでしょうか。たとえ反逆罪を問われ、その場で上司により殺されたとしても、です。日本は重慶などの空から爆弾を何度も落としました。アメリカ軍は東京など主要都市の空から爆弾を毎日のように投下しました。広島、長崎では原子爆弾を使いました。多くの民間人が死んでいます。どれも、やった当事者がいるわけです。当事者は、たとえその場で殺されようと、その行為を選べたことには変わらないでしょう。
ですから、そこには、ロジカル・タイプの混同があるんだと思うんです。法律が規制していないからやる。法律が規制していない方がわるいんだ。なんで自分が冷たい目で見られないといけないんだ。しかし、そうでしょうかね。たとえ法律がどうなっていようと、自衛のためだったとしても、どんな場合でも、殺人の事実は、一生、その人につきまとうんじゃないですかね。だって、論理的に殺人が許されるなんて、おかしいでしょう。絶対に人の行為に「例外」「時効」はないはずです。
また、あらゆる犯罪の補償が国家によって全て支払われるなどというのは、おかしいでしょう。絶対、各個人が、問われ続けるはずなんです。だから、その個人がその責任を果していくなにかを考えてやるしかないんですね。そうでないと絶対に救われません。今でも、自分が人殺しをした海外の現場に行って、当時戦った相手の部隊の人たちを探したり、村を探したりする人もいますね。それは、あらゆる場面でそうなんでしょうね。
もちろん、そういうことは、殺人に限りませんし、そうやって、あらゆることの是非が問われていくでしょう。