小島毅『近代日本の陽明学』

小島毅が、日本における、陽明学の与えた影響の推移について書いてある本で、大変興味深いのだが、一点、別の角度で、おもしろいことが書いてある。

なぜカントが明治時代の哲学者に好まれたのか?カントが理性の独立自尊を説いた哲学者だったからである。そもそも、カントの代表作は三批判書であり、そのことは明治の人たちも知っていたが、その批判哲学としての側面はあまり注目されていない。むしろ、批判哲学の検討対象とされている理性というものへの素朴な信仰、カント地震が批判した、彼以前の哲学者たちの態度に近いものを感じる。井上はじめ、その論敵たる大西や浮田を含めて、みな一様に理性のすばらしさを讃えているのだ。
そもそも Vernunft を「理性」と訳したのは「哲学」を造語した西周だった。幕末明治初期の洋学者で、山縣有朋に命ぜられて軍人勅諭を起草した人物である。おそらく、仏教用語としての「理性(りしょう)」がすでい彼の念頭にはあったのだろうが、文脈的には宋明理学の「理」と「性(せい)」とを合体させたものと思われる。至高存在(God)はそのもの自体を十全に発現することができ、その至高存在によって人間ひとりひとりの内面にも不完全な形ながら賦与されているものといったら、江戸時代に生まれた知識人が朱子学の「性即理」を連想して不思議はないからである。Vernunft という単語を知る以前から、日本人は「理性」という観念に馴染んでいた。したがって、彼らにとって理性を中心に捉えた哲学は理解の容易なものであった。正確に言えば、容易そうに思われた。親近感をもった。

なぜか、カントが、当時、はやるわけです。そういった元武士階級といいますか、そういった教養のある人たちが、彼らが親しんでいた儒教的な教養と近いところに、カントを読もうとしたというのがおもしろいですね。
カントの実践理性批判を読んだことがある人はどれくらいいるんですかね。ほとんど、「自由」のことしか書いていないこの本が、純粋理性批判とまったく違い、どれだけ、強引な形で、人間の自由、倫理をたちあげようとしているか。そのやり方が強引であることそのものを、カントはなんとも思っちゃいないですね。強引であればあるほど、その倫理性の存在意義の重要さをさらに強くするのでしょう。
いずれにしろ、そういったものとつながっていったのは、おもしろいと思うんですけどね。

近代日本の陽明学 (講談社選書メチエ)

近代日本の陽明学 (講談社選書メチエ)